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パリ郊外で見たフランスサッカーの基盤の厚さ

 移動の続くなかでの空白の一日、パリのカフェでナポレオンの時代を思い、サン・ジェルマン・アン・レイへの途中にパリ新市街の超モダンなアパート群を眺め、郊外の湖上の近くのスポーツセンターの規模の大きさに驚き、なお、その外に続く森の緑に、フランスの豊かさを知るのです。


6月18日(月)〜19日(火)パリ(サン・ジェルマン・アン・レイ)
ワーテルローへの回想

 久しぶりの紅茶がおいしかった。通りの向こう側にはバスがずらりと並び、観光客がぽつぽつ乗りはじめていた。1984年6月18日の朝、パリのチュイルリ公園のバンドーム側、リポリ通りに面したカフェにいた。
 前日、ヨーロッパ選手権の第2組リーグ、西ドイツ対ルーマニアを、北フランスのランスで取材し、西ドイツが“勝つ”試合をするのを見た。その夜はランス北方34キロのリールに泊まり、朝7時半リール発の鉄道でパリに戻ってきた。
 本当は、リールから北へ足を伸ばしベルギーへ入ってワーテルローの古戦場を訪れるつもりだった。1815年いったんエルバ島に流されたナポレオンがフランスに戻り、大軍を集めて英国、オーストリア、ロシア、プロセインの連合軍と戦ったのが、6月17、18日。ヨーロッパの歴史に大きな影響を与えた皇帝ナポレオンの敗北の土地というほかに、あの「ワーテルローの勝利はイートン校の校庭にあった」という英国のウェリントン将軍の言葉が心に残っていたからだった。当時、英国の上中流家庭の子弟を集めたパブリック・スクール(私立学校)の教育の力の大きさをあらわした言葉とされているが、わたしには、フットボールという競技の流れのなかで格別な意味に取れるのだった。12世紀ごろから大衆に広がっていったモブ・フットボール。いささか乱暴で無秩序に、村の入口から相手の村の入口まで、ボールを蹴り、相手を突き飛ばし、ワッショイ、ワッショイと争っていたのが、19世紀のはじめごろから、イートンやハーローやラグビーなどのパブリック・スクールでも学生たちがプレーするようになり、各校それぞれのルールを作っていた。
 それらのルールを統一するためフットボール・アソシエーション(FA)が生まれ(1863年)て、今日のサッカーのもととなる。統一ルールと違う考え方を支持するものがラグビーに分かれていくのは半世紀近くのちになるのだが、プロセインの援軍が来るまで、頑張った英国軍の剛毅を通じてサッカーとかかわりがあったとしたら…と、この古戦場は今度の旅の楽しみだったのだが…。
 計画どおりにいかないのはわたしの旅の常。実は、8月の下旬に行なう釜本邦茂選手の引退記念試合の企画にかかわっていて、日本との打合せの必要ができ、連絡に便利なパリへ帰ってきたのだった。


西ドイツの宿舎は警戒厳重

 ティータイムを済ませ、本屋さんをのぞき、日本への連絡が済むと半日は空白。コンコルド・ラファイエット・ホテルのアディダスラウンジへ顔を出し、ドイツ代表チームの宿舎へ電話してもらうが、全然応答がない。予定では次の19日の午前に練習と記者会見がある。しかし、わたしは19日にはサンテチエンヌでのフランス対ユーゴの試合を見に行くから時間の余裕がない。いずれにしても、とにかく行ってみることにする。
 西ドイツ代表の宿舎はパリの北西部のサン・ジェルマン・アン・レイ(ST GERMAIN-EN-LAYE)にあるカンドホールというレストラン・ホテル。地下鉄のRERA1号線で市内から30分くらい。土地不案内のわたしは地下鉄メトロ1号線のポント・ニュイリー駅からタクシーで。1514年にルイ12世が建てたという不規則五角形の城と、その庭園が有名。一帯は高台で、ここからのパリの夜景が美しいそうだ。ホテルは町外れのスポーツセンターの横にあり、逆サイドは、素晴らしい森がつづき、道路を隔てた向かい側は軍隊。庭内にも緑が濃く、建物とプールのまわりには花がいっぱいで、まさに、パラダイス。
 もっとも、警戒は極めて厳重、門を閉じ、護衛の警官は一切をシャットアウト。
「デアバル監督に日本から会いに来た」
「誰も入れないことになっている」
「電話をかけても番号簿に載っているナンバーは通じないから来たのだ。とにかく監督に連絡してくれ」
「誰も取り次ぐなという命令だ。会いたければ、明日に来なさい。10時からインタビューをする」
 英語の話せるポリさんと押し問答し、持ってきた日の丸のピンを進呈して、門の中へ入り、受付けまで行ったら、今度はマダムがダメ。結局、タクシーを呼んでもらって手ブラで帰るハメになった。


デアバル監督の悩み

 翌6月19日、午前6時に起きてリヨン駅へTGVの座席指定券を買いに行った。TRAINS GRANDE VITESSE(超特急)の頭文字をとったTGV(ティー・ジェー・ヴィー)の略号で通じるこの列車はパリからマルセイユ方面、ジュネーブ方面へ走っていて、最高時速260キロを出せる世界一の超特急。
 この日、サンテチエンヌで午後8時半キックオフの試合に行くのに利用しようというわけだ。
 朝6時半に駅の出札口に並んだのに、希望した12時発は満席。16時発を買う。日本で購入した夏のバカンス・チケットで乗れるので指定券10フラン(340円)だけでよい。
 出発までに時間があるから、もう一度、西ドイツの宿舎へ行ってみる。
 西ドイツの宿舎へかけつけたときは、ちょうど選手たちがバスに乗るところだった。ルムメニゲに声をかけると、やあ、来ていたのか、とニッコリする。こちらの目当てのデアバルさんはいないから、別の車で行くのかと思ったら、なんと庭の向こうから自転車であらわれた。
「よく来たネ。今日は10時から練習をする。すぐ隣にグラウンドがあるんですヨ。それで、終わってから、テニス場のクラブハウスのレストランで記者会見をする。それに出て下さい。そのあとでも時間は取れるから」
「いや、デアバルさん。ボクは今日サンテチエンヌの試合を見に行くから、昼過ぎにはここをスタートしたい。プレス・インタビューには出席できません」
(こういうときのインタビューは、たいていビールが出るし、英語、フランス語の通訳が入るから時間がかかる)
「うん、どうすればよいかネ。じゃあ、ともかくグラウンドへ行こう。練習あとにでも話ができるから」
 監督さんは自転車で、ボクは待たせておいたタクシーで先回り。表道路から、グラウンドを横切るところで、デアバルさんは自転車をおり押していく。並んでの会話。
「手紙でお願いした8月25日の釜本選手の引退試合のゲストの件、よろしいですネ」
「ちょうど、その頃、わたしは休暇をとることになっているので好都合です。日本へ行けるのを楽しみにしています」
(釜本選手の引退試合に恩師のクラマーさんとデアバルさんを招待しようという案が出て、それを伝えるのも、この旅のひとつの目的だった)
「フランス代表チームは素晴らしいと思いますが」
「そう、わたしもあのチームは好きですヨ。技術もあるし、いつも攻める気が強いのがいい」
「若手がいいように思えます」
「うん、フランスは10年位前から少年育成に力を入れてきた。それが、いまいい結果となっている」
(アモロ、フェルナンデス、フェレリ、ブラボ、ベローヌ、ルルーなど1960年代生まれの選手、つまり21、2歳から24歳までの若手の技量と運動量には、驚かされた。若手に切りかえたくても切りかえられず、いつまでもベテランを使うと、ヨーロッパの記者から批評されるデアバルさんには、フランス代表チームがうらやましいのではないか)
「西ドイツ代表も第2戦で調子が上がってきたのでは……」
「うん、まだまだですね」


フランスは少年対策が成功

 群がってくるファンの求めに応じてサインをしながら、デアバルさんは自分のチームについては慎重だった。
 体操、ランニング、シュート、紅白試合と進むこのクラスの練習は、たとえ試合前日であっても迫力はあるが、全体に肩のあたりが硬い感じを受けるのは気のせいだろうか。
 時間が気になって練習の中途から抜け出し、リヨン駅へ向かう。
 そのわたしの頭のなかで、デアバルさんの「フランスは少年育成の成果が出てきた」という言葉が、エンドレス・テープのように繰り返された。
 そういえばストラスブールのサッカー展示会で「子どもたちを5歳からサッカーさせよう」というパンフレットをもらった。女子サッカーも、この国はすでにフランス協会の公式スケジュールに入っている。そしてまた故ドゴールのお声がかりではじまった青少年へのスポーツ奨励策。サン・ジェルマン・アン・レイの3面の芝のサッカー練習場と試合場……フランスサッカーの基礎の厚さと大きさを改めて知らされる思いだった。
 その代表チームの1次リーグ最終戦を、この夜、憧れのサンテチエンヌクラブの本拠で見ることができる――。リヨン駅の地下からプラットホームへ出るわたしの足は自然に早くなっていた。


(サッカーマガジン1985年1月号)

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