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サンテチエンヌの整然とした組織に日仏の違い

 トヨタカップはこんども南米側が勝ちました。同じ南米でも、ブラジルとは、また一味違うアルゼンチンのプレー。ことにタテへの突っかけは78年ワールドカップを思い出しました。このヨーロッパ選手権の旅は、パリからリヨンを経てサンテチエンヌ。かつてヨーロッパにベール(緑)旋風を起こしたチームの本拠地で、フランス代表の見事な逆転劇を満喫します。


6月19日(火)パリ→サンテチエンヌ

 リヨンからサンテチエンヌへの、かなり急な勾配を、TGV(ティー・ジェー・ヴィー)はゆっくり上っていった。峠を越え下りにかかるとボタ山が目に入ってきた。鉱山と工業で栄えた町だな――と、いささか、くすんだ町の景観を見下ろしながら、とうとう、サンテチエンヌまでやってきた、と、口もとがひとりでにゆるむのだった。
 1984年6月19日、欧州選手権1次リーグは最終のシリーズにかかって、この日は第1組のフランス対ユーゴがここサンテチエンヌ(ST.ETIENNE)で、午後8時半から、デンマーク対ベルギーがストラスブールでやはり同時刻に行なわれる。私は朝のうちにパリ西部のサン・ジェルマン・アン・レイで西ドイツの練習を覗いてから、午後2時にフランス国鉄(SCNF)の誇る超特急(TRAINS GRANDE VIEESSE=略称TGV)に乗ったのだった。サンテチエンヌまで506キロを2時間49分だが、このパリ−リヨン間427キロを2時間、平均時速213.5キロだから、さすがに速い。


山に囲まれた工業都市

 サンテチエンヌは人口20万6,000人(84年版ミシュラン・ガイド・ブックによる)、フランス中央台地の高度約500メートルの盆地にあって、1296年に石炭の発見によって発達した町。周囲をあわせると、50万近くなるとか。現在は繊維産業、製鉄、自動車部品をはじめ工学関係、精密機械など多種の工業が進んでいる。西は700メートル前後、東は1,000メートルをこえる山に囲まれた風景は、神戸や京都の山の姿を見て暮らすわたしには懐かしい。試合が行なわれるのは、市の北部にあるジョフロイ・ギョイシャルド競技場。サンテチエンヌ・クラブ(L'association sportive de Saint Etienne)の本拠地だ。
 駅からタクシーで競技場へ。500メートル手前で降りて、ずらりと並ぶ露店を覗く。ホットドッグ。ドイツ式のフランクフルトソーセージにカラシをつけパンにはさんだのが8フラン。


ブティック・デ・ベール

 スタジアムの正面入口に「ラ・ブティック・デ・ベール」(緑のブティック)がある。ベール(緑)はサンテチエンヌのユニフォーム。昨季はプロフェッショナルリーグの1部で20チーム中18位と不振だったが、これまで10回優勝、ことに1966−67年のシーズンから4連勝、さらに73−74年から3連勝し、70年代前半はヨーロッパ・チャンピオンズ・カップのファイナル・ステージに進出し「ベール」の攻撃的サッカーは欧州ファンに強い印象を与えた。
 1977年にヨーロッパの「かけ足ツアー」をしたとき、ニースでサンテチエンヌの試合を見た。オートバイや車に「緑」の旗を立てて、地中海の町まで応援に駆けつけるここのファンと、それに支援されたサンテチエンヌの休むことのない攻撃展開に、わたしのフランスへの興味は大いに膨らんだのだった。
 ブティックの中は、緑のマスコット人形、旗、キーホルダー、タオル、ブレザー、ブルゾン、帽子、マフラー、クッションと何でもそろっていた。そういえばここが強かった1976年のフランスの流行色は緑だった。
 プレスルームでBBC(英国放送)のマーチン・フックスというレポーターが、わたしにインタビューしたいという。日本から欧州選手権を取材に来るという点に興味を持ったらしい。フランスが決勝まで残って、彼らの面白いサッカーを世界中にテレビで知らせてほしいと思う、というようなことを相手の問いに応じる形で話した。20分くらいの問答をカセットテープに収めて、フックス君はバッチリだ、なんて言っていたが、果たしてラジオの電波に乗ったのかどうか。もう放送したとしたら、下手な英語は冷や汗ものだ。


プラティニの3得点

 2戦2勝で、準決勝進出は確定しているフランスはGKがバツ。DFがバチストン、ボッシ、ドメルク。MFがティガナ、ジレス、プラティニ、フェレリ。2トップはロシュトーとシクス。キックオフの直前にフランス国旗を持ったひとりがフィールドに走りこんで場内を笑わせる。
 1次リーグ敗退の決定しているユーゴが相手というので、スタジアム全体は気楽な雰囲気。前半19分にはフランス・スポーツのシンボルであるニワトリが一羽、芝生の上を歩き回り、レフェリーが試合を中断する一幕もあった。そんなのんびりムードは、ユーゴの先制シュートで一気に緊迫する。左サイドへ再三攻め上がりを見せていたセスチッチが、スシッチとのワンツーから、左足でクリーンシュートした。フランスとしては右のフェルナンデスのセスチッチに対する注意がおろそかになっていた。
 後半に入るとフランスは不調のロシュトーをテュソーに代え、プラティニがトップに進出してバンバン攻めはじめた。そして後半の15分、中央のフェレリから左へスルーパスが通り、プラティニが出てくるGKの下を抜いて決めた。好機の際のポジショニング、ノーマークの地域を狙うプラティニらしい得点だった。
 1−1の同点になってスタンドは大いに盛り上がり、すぐ2点目が生まれた。右から攻めて、ティガナが外側のバチストンに渡し、バチストンが強いライナーのクロスをゴールマウスへ。ユーゴの二人のDFの間を縫ったこのタマに、左寄りにいたプラティニがダイビングヘッドで合わせた。
 プラティニの得点ラッシュはなお続く。35分にはFK。彼の得意の位置、ゴール正面、ペナルティエリアのすぐ外。スタンドは「プラティニ、プラティニ」とFKスペシャリストの得点を見ようとプラティニ・コール。
 ユーゴの5人が壁を作り、いつ蹴るのかと思った瞬間ボールのそばに一見ボサーッと立っていたプラティニが、いきなり、右足を振った。ボールは壁の上を越え、左へ曲がってゴールの隅へ。ジャンプのタイミングをなくしたGKシモビッチには気の毒だった。ゴールキーパーにとってはシュートする相手の動作が見えておれば反応も早いが、まだ相手がキックの体勢に入っていないからと予測していないときに蹴られれば、反応はずいぶん遅れてしまう。
 強いタマを蹴るばかりが能ではない。シュートのタイミングを、GKの予測より早くすれば、それが何分の一秒というわずかな差であっても、その効果は大きい――とは、ベルリン五輪の日本代表、シュートの名人・河本泰三さん(関西協会会長)の持論でもあった。力いっぱい蹴ることのいいが、そんなに強いタマでなくても、相手のタイミングを崩せばゴールは成功しやすいことを、このフリーキックは証明したが、プラティニというプレーヤーのストライカーとしての精神的な資質を、このキックのタイミングという点で改めて噛みしめることができた。
 ユーゴも諦めず、攻撃を繰り返し、PKによる1点を追加して3−2とした。今度の大会は久しぶりに彼らのサッカー、高いボールテクニック、うまいボールキープを基盤とするユーゴのサッカーを世に問うチャンスだったのに、1、2戦で調子に乗れず、不本意な成績で退くことになった。この夜の試合は敗れはしたが、彼らにとっては多少の慰めになるのではないか。


少年からプロまで整然たる組織

 サンテチエンヌでホテルが予約できなかったものだから、リヨンまで戻る夜道が大変だった。満員の4万5,000人がスタジアムから出て、駐車場まで歩き車に乗る。その車の列がハイウェーまで延々と続くのは、まことに壮観だった。山添カメラマンの車でリヨン市のホテルレザルティストへ着いたのが12時を回っていた。劇場のすぐそばにあってアーティスト、つまり芸人と名づけたホテルは、そういう客筋が多いらしいが、レストランはすでに閉まっている。鉄道の駅にあるリヨン・ベラルシェ一帯ならまだ店は開いているが、ベラルシェへの往復に鉄道のガードをくぐるから、必ずタクシーを呼びなさい、とフロントが注意してくれる。
 遅い夕食を済ませ、しばらく寝付かれないままに、サンテチエンヌのクラブで買った、同クラブの81−82年版の公報をパラパラとめくる。A4版92ページのカラーー印刷で、前年のリーグ優勝メンバーやクラブの組織、役員、会計などが手際よく編集されている。3年前のリーグ優勝メンバーには、代表チームのバチストン、プラティニがいたし、オランダのレップも入っていた。
 このプロ20人の下に、3部リーグにプロの2軍が14人、他にアマチュアと少年があり、シニアは4部リーグに参加(17人)。少年は年齢別で▽16〜19歳が36人、▽14〜16歳が32人、▽12〜14歳が26人、▽10〜12歳が33人、▽7〜10歳が38人(合計165人)。もちろん、それぞれの年齢グループにコーチとアシスタントが一人ずつ。
 クラブの医事部はドクター2人、トレーナー2人。事務所の職員は16人。ロシェ会長の下に2人の副会長と6人の理事が運営にあたる……などなど。
 いつものことながらヨーロッパのスポーツの子どもからトップまでの整然たる組織を見るたびに、日本のスポーツ界の特異な体質を思った。リヨンでの眠りが浅かったのはベッドが合わなかっただけではない。


(サッカーマガジン1985年2月号)

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