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マルセイユでフランスの驚くべき力を見たのだ

 86年メキシコ・ワールドカップ予選がはじまって、日本代表も23日にシンガポールでの初戦に臨む。1月15日のボルドー戦に見せたがんばりを発揮してほしいものだ。あの日は、フランス・サッカーのマイナス面のひとつを見たわけだが、このヨーロッパ選手権の旅でも、わたしはマルセイユでの準決勝でフランスの暗の部分と、同時に、プラティニと彼の仲間たちが、驚くべき力を秘めていることを知った。


6月23日(土)マルセイユ
マルセイユの旧港で

 岸壁をひたひたと打ち続ける波は、まぎれもなく地中海の青さだった。陽射しは強いが風が心地よかった。1984年6月23日、マルセイユの旧港(ヴィーユ・ポール)でわたしは海の香りを満喫していた。
 前日、パリから超特急T・G・V(ティー・ジェー・ヴィー)で5時間、午後8時にサン・シャルル駅に着き、同じ列車に乗り合わせた早大の学生岩崎淳君と別れて、予約してあった「ホテル・ユーロピアン」に泊まった。パラディス通り(115 Rue Paradis)の二つ星の小さなホテルは旧市街の細い坂道に面していて43室、夜にチェックインしたせいもあり、ガランとしたロビーにヒゲ面の男が一人いるだけで、ジャン・ギャバンのギャング映画のシーンに出てくる感じ。前日までの二晩がパリのホテル日航、旅はT・G・Vの一等車と気分が良かった後だけに、いささかがっかり(こちらがパリのエージェントに任せているのだから文句も言えない)した。人影のない坂道を少し下ったところに「宝島」TAIWANの看板を見つけ、中国料理の夜食を済ませてベッドへ。もっとも一夜明けて、そのロビーで朝食をとり、室内にコーヒーの香りが漂うと、前夜の薄気味悪さは、どこかへ消えてしまった。
 午後に岩崎君がホテルに来てくれたので港で魚料理を食べようと出てきたのだった。


ブイヤベースの味わい

 早大の学生の岩崎君は前夜はユースホステルに泊まり、そこでドイツに留学中の田嶋選手や、バイヤー・レバークーゼンにいる風間選手と一緒になったらしい。二人はドイツから車で来ていて、フランス国内で盗難にあったとか。高校のときに県の選抜に入った経験のある岩崎君と二人とは、すぐ仲良くなって大いに話が弾んだらしい。
 港に面した魚料理の店で、ブイヤベースを注文する。店頭に水槽があって、泳ぐ魚を見せているところは2年前のスペインの魚料理の店と似ているが、さすがに港町、お客が食べている最中にも、いま獲れたといわんばかりの魚介類のカゴを抱えて調理場へ運んでゆく。ブイヤベースは魚と野菜の煮込みで作ったスープに、トマトペーストやサフランなどを加え、それに魚介類を入れて強火で煮るもので、エビやコチ(ヒラメ)、ハマグリ、ムール貝などが金属皿の上でひっくり返っている。テーブルでもバーナーにかけ、自分で皿に取って食べる。いわゆるプロバンス風だからオリーブ油とガーリックはつきもの。
 ワインを飲み(といっても、アルコールのダメなわたしは、ごく少量だが)ブイヤベースを食べ、まわりのフランス語の響きを聞き、海と船を眺める気分は格別だった。


テレキップデータ

 午後3時半に、港からホテルへ帰り、5時半に人に会うつもりでスタジアムへ。広報担当へのインタビューを人づてに申し込んでおいたのだが、忙しくて時間が取れないと。
 時間があるのを幸いと、プレスセンターのテレキップで、選手、監督のデータをプリントする。
 今度の大会には試合結果や選手の略歴についてのプレスの公式の印刷物はなくて全て「テレキップ」と呼ぶテレビの画面と、それについたプリントでサービスすることになっている。これはフランスのスポーツ紙というより欧州一の総合スポーツ紙レキップとテレビコンピューターのミニテル社の合同で作られたシステム。テレビの画面で時間を決めて一般ニュースも流すし、試合放送の前後には臨時ニュースも出す。データは、たとえばフランス代表チームのこの大会での試合記録、短評や個人記録、監督の略歴などもあり、また大会の歴史、規約もインプットされ、いずれもフランス語と英語があるから、わたしなどはまずはじめにイングリッシュと指定しておけばいい。


出足は緊迫感を欠いたが

 20時開始のフランス対ポルトガル戦は、フランスにとって、とても苦しい試合になった。キックオフ前の場内は、早くから5万5,000の観衆で超満員、スタド・ベロドロームの名どおり、自転車競技場(ベロドローム)でもあったから、ゴール後方にバンク(走路)が一部残っていて、その前に設けられた席も満員、トリコロールの赤・白・青の合間にポルトガルの赤と緑が振られていた。ただし、キックオフ直前にも、場内は雑然たる雰囲気、重要なタイトルマッチを迎えるホームチーム側の緊迫感に乏しい。
 フランスはボッシュとルルーを中央に、右にバチストン、左にドメルグのDFライン。MFはジレス、ティガナ、プラティニとフェルナンデス、2トップはラコンブとシクス。負傷していたルルーが復帰したので、グループ・リーグの対ベルギー、対ユーゴ戦の3DF・5MFを、もとの4DF・4MFに戻したらしい。もっとも、この場合はバチストンの右から、ドメルグの左からの攻め上がりが頻繁になり、時にはバチストンが右サイドのMFに見えることもあるが…。


ポルトガルのカウンター

 フランスがボールを支配して攻め、ポルトガルがカウンターという形で試合は進み、23分にフランスがFKから先制点、ゴール正面20メートルちょっとの位置から、誰もがプラティニが蹴ると思っていたとき、ドメルグがボールに近付いたと思ったら左足を鋭く振った。ボールは壁を越え、左ポストの隅へ飛び込んだ。左利きの彼の会心のシュートだったろう。
 ポルトガルは一度ボールを奪うと、リードされているのに、攻める気があるのかないのか、ちょっと理解しにくいキープをする。ぬらりくらりと持っておいて、ポーンとサイドへボールを出し、そこから前進して、相手ゴールマウスへクロスを出すのが攻めの手順。
 フランスは、見事なパスを展開するが、GKベントの活躍もあって、追加点が生まれない。後半2分にフェルナンデスの強シュートをベントがパンチ、このリバウンドをまたフェルナンデスがシュートして右へ外し、スタンドはため息。続くジレスのシュートもGKが右CKに逃げる、といった調子。
 そして28分にポルトガルの同点ゴール。右サイドからの大きなクロスが左へ流れるのをシャラーナが詰めて、左から中へ返しジョルダンがヘディングを決めた。
 その後しばらく、フランスが猛然と攻め込む。シクスのシュートがバーを叩き、プラティニのヘディングが左に外れ、またプラティニがペナルティーエリア右で一回転して左でシュートしてバーを越したとき、残り時間を示す時計は9分11秒を指していた。アレ・ラ・フランスの大合唱を背にした攻撃も、追加点を生まず、90分を終わって1−1。


ゴール前でのプラティニ

 15分ずつの延長がはじまる前、足の手当て、腰を下ろして休む選手たちの中で、将軍プラティニは一番早く立ち上がり、キックオフのポジションへ。ポルトガルのベントがやってきてトスをした結果、ポルトガルのキックオフで再開(ニワトリが入ってきて遅れたため9時45分)。ポルトガルはフランスの焦りを誘うように後方でゆっくりキープしてみせたりし、7分間にフランスのチャンスは二度だけ。8分に今度は右へ回っていたシャラーナからのクロスがフランスのDF陣を越えてきたのを、またまたジョルダンがワンバウンドを叩きつけるようなシュートで決めた。ポルトガルの2ゴールはいずれも単純なサイドからのクロスだが、2本ともクロスが長くファーポストへ行った(1本は折り返しで)のがフランスのDFを揺さぶる形となった。
 フランスはシクスに代えてベローヌを投入したが、延長前半は得点できず、後半を迎える。さすがに場内も緊迫、リードされているのを同点にしてもPK戦が待っている――。多くのフランス人の頭を、82年ワールドカップ準決勝の不吉な思いがかすめたに違いない。
 ベローヌのロングシュートではじまったフランスの攻撃は、さすがに気迫がこもり、長身のルルーが前線へ加わり、空中戦を強化する。
 10分についに2−2、ジレスが二人抜いてシュートしたりバウンドを、つないでプラティニへ。プラティニはほんのわずか体を動かすだけのキープで相手二人にからまれ、ボールが左へ転がるところをトップにまで上がっていたドメルグがシュートした。
 押せ押せムードのフランス。なんとか逃げようとするポルトガル。あと2分の大時計にスタンドは「アレ・フランス」をがなる。待望の決勝点が入ったときの時計はあと43秒を指していた。ベローヌのシュートをGKベントがはじき、フランス側は、入った、入った(ゴール、ゴール)とアピールしている間にポルトガルが攻め返そうとする。それをフェルナンデスが沈着に奪いジレスへ。ジレスは右のティガナへ。スリムな黒人は、ペナルティーエリア右側のオープンスペースへ鋭いドリブルで侵入する。シュートかとみて、ポルトガルDFがタックルに、GKもニアポストに寄るとき、ティガナはゴールマウスへ送る。そこ(ゴールエリア正面)にちゃんとプラティニがいた。ノーマークの彼はワントラップし、右足を鋭く振った。
 どんなにリードされ、焦っても、きっちりボールを回すフランス・サッカーとゴール前で強い将軍の勝利だった。


(サッカーマガジン1985年4月号)

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