賀川サッカーライブラリー Home > Stories > >フランス・サッカー100年史展に秘められた合理性

フランス・サッカー100年史展に秘められた合理性

 ここしばらく、心は華やいでいます。それはワールドカップ・アジア予選での日本代表のがんばりのおかげです。4月30日の平壌での成功(0−0の引き分け)に次いで、今度は5月18日、東京での対シンガポール第2戦を見事に突破してほしいものです。さて、ナショナルチームの活躍で、「アレ・ラ・フランス」の歓声が全土に満ちるフランスを巡る「84ヨーロッパ選手権の旅」も、いよいよ終盤。T・G・V(ティー・ジェー・ヴィー)や車や飛行機などでの移動は終わって、いよいよ決勝のパリに戻り、フランス・サッカー100年史展を見に行き、彼らの隆盛について思いを巡らせるのです。


6月26日(月)パリ
観光バスを横目に……

「この調子では、今度も観光バスに乗れそうにないナ」
 1984年6月26日(月曜日)パリのリボリ通り(RUE DE RIVOLI)に面したカフェでコーヒーを飲みながら、目の前にずらりと並んだ大型バスに目をやった。
 6月11日に大阪を飛び出し、12日の昼前にパリに着いてから、パリ、ランス(宿泊はリール)、ストラスブール、ナント、ランス(リール宿泊)、パリ、サンテチエンヌ(リヨン宿泊)、パリ、マルセイユ、リヨン、と試合を追って、フランス国内を北・東・西・南へと移動し、6月24日の準決勝スペイン対デンマーク(リヨン)の取材から、前日、パリへ戻っていた。
 はじめの心づもりでは、26日(月曜日)はノルマンジーへ足を伸ばすことにしていたのが、ノルマンジーへの日帰りツアー(観光バス)は土曜日だけで、月曜日出発だと2日はかかる。おまけに、前日、試合記録を見直すためにポルト・ベルサイユのプレスセンターへ顔を出したら、決勝戦の入場券受付けと、掲示があり、すでにマルセイユで申し込んでおいたから問題はないハズだが、念のためにと、名前を言うと、もう締切っているが、あなたはまだブッキングしていませんヨとの答え。
「そんなバカな……、マルセイユでちゃんとKAGAWAの名を書き込んだのを、わたしは見た……」「まぁ、それでは、受付けておきます。明日26日に入場券を渡します……」といった調子で、この日の午後にまたプレスセンターに出向く用事ができてしまい、市内観光の時間も難しくなっていた。
 最も、旅も終わりに近づくと、案外に時間の余裕がなくなるのが普通だ。毎度のことながら、買い込んだ新聞や雑誌を荷造りし、日本へ発送すること、少しはお土産品を買うこと、そして記録を整理し、いくつかの原稿を出版社に渡すこと……などなど、実際は観光バスに乗れない方が、あるいはよかったかも知れない。
 そのひとつが、この日の「フランス・サッカー史展」。ホテル・モンタボーの壁面に
「FOOTBALL de FRANCE」100 ans d'historire du football francais(フランスのサッカー、百年史展)のポスターが貼ってあった。6月5日から7月13日までで展示会場はリシュリュウ通りでホテルに近い。


貴重なポスター

 会場は1階の広間と地下1階に別れていて、1階は今度の大会のポスターと80点の写真、サッカー切手の展示。地下には各種トロフィー、昔のポスター、フランス・サッカーの歩みの解説パネル、ビデオなどがあった。ストラスブールでも、この種の催しを見たが、さすがに、ここの方がそろっている。パリ・オリンピック(1924年)の公式ポスターで槍投げのフォームのデザインはこれまでに何度も見たが、サッカー競技のポスターは、わたしには初めて。フランスで開催された1938年のFIFA・ワールドカップ(FIFA COUPE de MONDE)のオリジナルは年代の重みがあり、76年ヨーロッパ・カップのサンテチエンヌ対バイエルン・ミュンヘン(グラスゴー)やパルク・デ・プランスのフランス・カップ決勝(1974年6月8日)などの斬新なフランス流デザインのポスターとともにコレクターやマニアには、こたえられないだろう。
 もともとフランスは映画のポスターでも、戦前から評判が良かった。今度のEURO84の9枚も色彩は全体にパステル調で、明るくて、かつケバケバしさはなく、粋(イキ)で暗さがなく、1枚1枚に思わず声が出るほどの美しさだ。展示物一つひとつの説明は当然のことながらフランス語(ああ、フランス語を勉強しておけば……)せめて解説プログラムでもあれば、持って帰ってじっくり読むのに……。そういえばアルゼンチンでもスペインでも、イタリアでもこうしたサッカーの素晴らしい展示があったのに解説のパンフレットを見なかったが、その不思議さはここフランスでも同じだった。


登録プレーヤー141万人

 パネルの図表を見ると1920年のフランスでサッカー協会に登録されたクラブは1000、登録プレーヤーは3万2,780人。
 それが、
▽1925年(3,592、10万人)
▽1950年(8,871、44万873人)
▽1970年(1万2,880、48万7,000人)
▽1975年(1万7,214、69万8,000人)
▽1980年(2万0,411、141万2,000人)
 に増えたとある。
 1870年代にイングランドからフランスへ近代フットボールが持ち込まれ、しばらくは(19世紀では)ラグビーの方が盛んだったが、やがてサッカーが普及しフランスのナンバー・ワン・スポーツになる。1908年のイラストを見るとパリ市内には、すでに24のクラブがあったという(どれもグラウンドを持って)。
 ついでに付記すれば1976年のパリジャン・リーグの登録プレーヤー(10万人以上いた)の国籍調査をしたら、78ヶ国の外国人国籍の人が9930人プレーしていたという。世界中から来るのは観光客ばかりではないらしい。
 こうしたフランス・サッカーの歴史の進展には1924年のパリ・オリンピックや、1938年の第3回ワールドカップ開催が大きな刺激となっているだろうが、1970年代に入ってからのフランス協会の少年対策も効果が大きかったようだ。
 まずコーチ育成を図り、資格をきちんとするのは当たり前としても、クラブの少年チームを▽16歳以下▽14歳以下▽12歳以下▽10歳以下(7歳まで)と低く年齢層におろし、さらに、6歳や5歳にまで及ぶようにした。現在は「5歳からフットボール」がひとつのテーマになり「5歳児サッカーのルール」がミシェル・イダルゴ、J.P.モルランの2人のナショナル・トレーナーの監修で決められている。


5歳児のサッカー

 それによると▽グラウンドは横20〜25メートル、縦35〜45メートル▽ゴールの大きさは高さ2メートル、幅4メートル(バーがなくても良い)▽1チームは5人、交代3人▽クツはサッカー・シューズ、バスケット、テニス・シューも良い▽試合時間は10分ハーフ、ハーフタイム5〜10分。延長はなし、などとなっている。
 北欧あたりでは、子どもたちは、広いゴール、広いグラウンドでも、まずやらせること、といった思想だが、さすがに法則好きのフランスは、子どものサッカーにも一応の規制をつくる。その規制も単に大人の焼き直しではなく、子どもたちの将来を考え、子どもがサッカーを楽しみ、技術を身につけていくための心遣いが見える。


技術向上に特別ルール適用

 1975年にモナコで行なわれた18歳以下の国際ユース大会では▽警告を受ければ10分間退場▽ペナルティー・エリア内で守備側が蹴りだしたCKは、コーナーからでなく16メートル50からのキック。などというように若者用の大会特別ルールをつくり、UEFA(ヨーロッパ・サッカー連盟)やFIFAの許可を得て大会で適用したという。また1975年から国内の試合でもフェアプレー賞を与え、また、同じ年齢制限の大会でも、特定の大会には年長者の参加を認める(1975年ツーロンでのエスポワール=21歳以下=大会には23歳以下を2人までOKとした)ことなどもした(この年齢で2つ違うと、上手な選手は余裕を持ってプレーできる。それによってチームのまとまりもよくなることもあり、その2人の自身につながることもある)。
 プレーヤーはターフから自然に育ってくる。というのがサッカーでの一般的な考え方だが、少年の発達を上手く導くために、ルールという環境を規制するフランスのやり方は、こうしたフランス協会とイダルゴら技術首脳陣の選手育成等の成果なのだろうか。
 人気(ひとけ)のない静かな会場で、わたしはフランス・サッカー100年の展示品の、「故ドゴール大統領と握手するプレーヤー」の写真や、数々のトロフィーやポスターの中から、フランス人の合理性と、エスプリをかぎ出そうとするのだった。


(サッカーマガジン1985年7月号)

↑ このページの先頭に戻る