賀川サッカーライブラリー Home > Stories > >40年前の夏の思い出から始まったサッカーの旅

40年前の夏の思い出から始まったサッカーの旅

 代表チームおめでとう!! サポーターの皆さん、おめでとう!! 8月11日の神戸総合運動公園の試合は、ワールドカップ予選で一歩前進しただけでなく、東京以外のスタジアムで代表チームがタイトルマッチを戦い、しかも充実した気力を見せての勝利だった、という点でも、良かったと思います。選手一人ひとりの技術、チームの戦術にも工夫のあとが見られるのはとてもうれしいことでした。さて、わたしの84年欧州選手権の旅は最終回、BA(英国航空)の機内でメモを整理しながら楽しみをかみしめ、これまでのいくつかの“旅”を思うのです。


7月1日(日)グリーンランド上空
グリーンランドを右手に

 いつの間にかウトウトしていたらしい。暗い機内では映画が続いていた。トイレで顔を洗ってから後尾の窓をのぞくと、陸地が見えた。ああグリーンランドだなと、しばらく海と陸のはざまの景観に引き込まれた。ヨーロッパへの旅は何度かになるが、グリーンランドを、今日ほど間近に、良い天気の下で眺めるのは初めてだ。そういえば乗り込んですぐ機内誌「ハイライフ」を開いたら、北回り便の航路図には3つのラインが書き込まれていた。その1本がグリーンランドをかすめていたのを思い出した。
 1984年7月1日グリニッジ時刻18時20分だった。
 席に戻って小さな灯の下で、メモの整理をする。長時間のフライトは、私には、忙しかった日を振り返り、頭の中の引き出しに仕分けてゆく、大切で楽しい作業の時間帯だ。何より、電話もかからず邪魔されないのがうれしい。


テニスのメッカ、ウインブルドン

 EURO84、ヨーロッパ選手権は4日前の6月27日に終わっていた。決勝の夜、凱旋門に押し寄せた車と、若者たちがトリコロール(三色旗)を振り、アレ・フランスを叫び、クラクションを鳴らしてフランス優勝の喜びを発散させているのが面白かった。
 28日はショッピングにあてていた。結局、デパートの売り場で大会の公式ポスターをいくつか手に入れただけだったが…。29日、BA機でロンドンへ飛び、ウインブルドンへ足を運んだ。74年西ドイツ・ワールドカップのときミュンヘンのプレスセンターで決勝の原稿を書きながらテレビでウインブルドン全英テニス選手権の放映を見て、ヨーロッパ人のテニスへの愛着に興味を引かれた。その帰途ニューヨークへ寄り、新築の構想高級アパートにテニスコート群が隣接する、いわゆる70年代のテニス熱を知った。1930年代から40年はじめにかけて、つまり第二次大戦前の日本にもテニス盛期があり、甲子園に「百面コート」と称する広大なテニス・コート群があったのを覚えているわたしには、ワールドワイドな競技、ワールドビジネスになったテニスのメッカ・ウインブルドンを訪ねることは、今度の旅の小さな目的の一つでもあった。
 6月30日はハロッズなどのデパートや有名店を見て歩き、夕食は、「THE INDIA」というレストランで、インド風のカレー料理を食べ、7月1日にヒースロー空港から飛び立ったのだった。


BA機とサッカーとのつながり

 今度の旅は6月11日に大阪からBA機に乗り込むことで始まった。成田で乗り換えなくて良い点と運賃の関係から選んだのだが、ここは、かつて1959年の第1回アジア・ユース・トーナメントで日本選手団と同行したときに乗ったことがある。当時の最新鋭機のコメット機で、ジェット機がまだ珍しいときだった。それが、わたしの海外のサッカー取材の始まりだった。
 あれから25年、いわば4半世紀を経た。
 1966年のアジア大会(バンコク)で再び、ナマのアジアのスポーツの空気に触れた。それから、しばらくオリンピックもワールドも実際に足を運ぶ機会はなかった。スポーツ記者であると同時にスポーツ紙の編集者としての仕事の時間があまりに大きくて何週間かまとめて旅行する余裕はなかった。
 1974年に、初めてヨーロッパへ飛んだ。1924年生まれのわたしは50歳の台に届くときのワールドカップだった。試合のために、フランクフルト、西ベルリン、シュツットガルト、ハンブルク、デュッセルドルフ、ミュンヘンなどの西ドイツ諸都市をまわり、世界のトップ級の選手の個性と彼らが組み立てるチームワークの面白さと、彼らがボールをめぐって争う「カンプ・ウム・デム・バル」の壮烈さに酔った。そして、自分のスポーツ紙の誌面で外国チーム同士の試合を華やかにレポートする新機軸を打ち出したのだった。
 サッカーマガジンの誌上で“旅”のシリーズを掲載したのもこのときからだった。
 77年には「欧州かけ足ツアー」を。
 78年には「アルゼンチン・ワールドカップの旅」(ラプラタからアンデスまで)を。
 80年秋から冬には「80年欧州選手権の旅」(わが内なるイタリア)を。
 81年冬から秋には「コパ・デ・オロの旅」(オーバー・ラプラタ)。
 82年には「ワールドカップの旅」(エスパーニャ・82)を書き続けた。


40年前の夏、ある少年と

 1945年8月15日に大戦が終結したあと陸軍航空の一員であったわたしは、復員するまでの2ヶ月近く朝鮮半島の南部でしばらく無為に暮らしていた。小学校の校舎に寝起きしていたある雨の日、校庭にボールが落ちているのを見つけた。空気の抜けたブヨブヨのボールをボードに向かって蹴っていたら、いつの間に小さな少年が、わたしの横に立っていた。彼の方へボールが転がるように蹴ってやると、ダイレクトでピシャッとキックし、こちらを向いてニヤッと笑った。それから2人は雨の中でボールを蹴っていた。
 暗くなって見えにくくなり、少年はボールを持って帰っていったが、その夜は、久しぶりにボールに触った興奮からか、色んなことを考えたものだ。
 校舎を明け渡して空いた農家へ宿舎を写したため、少年とは二度と会わなかったが、ボールを蹴った何十分間の2人には、何か触れ合うものがあったように感じられたのを40年後の今も思い出す。
 戦争に負けて、と号(特攻)隊で死ぬと決めていた自分が、このあと、どんな生き方をするのかわからなかった。とにかく、一度日本に帰ってみよう。そして、自分たち戦中派には縁の遠かった「デモクラシー」というものを見極めてみたい。という気持ちと、自分がやってきたスポーツを、もう少し続けてみたい。そして、あの雨の日に少年とボールを蹴って、何となく心が通った、そのことも、もう少し考えてみたい。そんな思いが復員してからの自分の中にくすぶっていたことは確かだった。


フランス・サッカーの魅力

 50歳を超えてから、なにか、思い立ったように旅に出かけ、旅を書いたのは、異邦人の中にあって、異邦人と自分の間にサッカーを通じての結びつきを求めたのかも知れない。
 今度の旅で、フランス・サッカーを見つめることができたのがうれしかった。フランス語というハンデのため、日本のスポーツ界では、英米に比べるとフランスについて知ることは少ない。近代オリンピックの創始者クーペルタンやサッカー国際統合の先駆者ジュール・リメがフランス人であるのに……。
 イングランドのフットボールと並んで古い歴史を持つ「ラ・スール」の物語だけでもスポーツ史家には興味があるハズだ。
 フランスの北、東、西、南と、パリを離れた各都市、各地方の風土と気質を、わずかな日数ながら肌で感じたのは幸いだった。そして、またフランス流のサッカー技術教育、子どもたちの自由を重んじながら、同時に効果的なシステムに思いをめぐらす彼らにひとしお興味をそそられた。
 そしてまた、平均して北ヨーロッパ人より体格の劣るフランス人が、自分たちの個性を尊重しながら、彼らのサッカーを楽しみ、つくり上げてゆく過程は、これからの、わたしたちにも参考になるだろう。
 運営の上手さ、特に入場券販売は、今度の大会の成功のひとつだろう。総収入21億6,000万円のうち入場券収入が5割を超えているのは、スポーツとして健全といえるだろう。損益計算では14億5,000万円の利益を生んでいる。
 通り過ぎた町、スタジアム、列車、ホテル。ストラスブールやリヨン、そしてマルセイユと、一度は踏んでおきたかった土地に、たとえ1日でも身を置いた満足。取材用の入場券が手に入らぬとき、頼めば黙って都合してくれたスポーツ仲間の好意への感謝。
 若い雑誌記者やフリーのカメラマンたちの親切……。
 回想を続けるうちに、映画は終わり、機内は明るくなり、キャプテンのアナウンスがアラスカのユーコン河通過を告げていた。グリニッジ時刻21時10分。30分後にマッキンレー峰(6193メートル)が見えるハズだった。
 次の話はメキシコ・ワールドカップ、おそらく、この双峰をしばらく見ることはない。


(サッカーマガジン1985年9月号)

↑ このページの先頭に戻る