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「川本泰三放談」とは

サッカー図書に造詣の深いFさんからのアドバイスで、1970年代のサッカー専門誌「イレブン」に掲載した、川本泰三さんのサッカー論をライブラリーに加え、皆さんに読んでいただくことにしました。

川本泰三さん(1914年〜1985年)は1936年ベルリン・オリンピックの対スウェーデン逆転勝利(「(3−2)の時の日本代表CF(センター・フォワード)で、日本の1点目を決めて、0−2からの追い上げの口火を切ったストライカー。

戦後も1954年第2回アジア大会(マニラ)には40歳で選手として出場するなど、息の長いプレーヤーであったと同時に、すぐれたリーダーであり、監督であり、関西蹴球協会理事長、会長でもあった。

早大卒業後しばらく同盟通信社(現共同通信社)運動部に籍をおいて、自ら記事を書いた経験もある。この人は、サッカーを書くことも、語ることも好きだった。

この川本さんを囲んで、朝日の大谷四郎(1918〜1990年)、毎日の岩谷俊夫(1925〜1970年)と産経の賀川浩(1924〜)の3人が、年齢は離れていても大阪クラブのチームメイトであり、記者稼業の親近感もあって、飽きることもなくサッカー論議に花を咲かせていた時代があった。そのとき、一番年齢が若いのに老成の進んでいた岩谷君が「いま、皆が言っているようなことを若い人に聞かせたい」とつぶやいていたものだ。

雑誌イレブンの当時の編集長・手塚宣武氏の相談を受けた大谷四郎さんが、この企画を考えたとき、おそらく若くして亡くなった岩谷の「つぶやき」を思い出したのだろう――と想像している。

1971年5月号からはじまった川本泰三放談は、72年11月まで。

大谷さんの体の都合もあって、しばらく休んだが、75年1月から「話の弾丸シュート」をはじめ、ちょうど大阪にいた共同通信の小山俊昭氏にまとめてもらうことにしたが、彼も勤務の都合で全部とはゆかず、途中から賀川浩が書くことになり、それが76年1月から「日本サッカー50年 一刀両断」に続いた。77年3月から趣向を変えて、対談相手を招くことにして「名人と語ろう」に変えた。川本さんの個性で、相手からいい話を聞きだすこともあって、いい内容になったが、何かの都合でストップしてしまった。

「放談」から「語ろう」まで、ひとつひとつの話には時代背景があって、あるいはそれぞれに注釈が必要かもしれない。それはまた別にすることにして、読んでいただく皆さんが、サッカーにある“不変”のものを汲みとって下さることを期待したい。

最後にもう一度、Fさんのお力添えに心から感謝。


語り手=川本泰三氏略歴

 大阪市岡中学より早大に進み、1936年ベルリン・オリンピックの日本代表。
戦後も長いシベリヤ抑留から帰国後、第一線に復帰して、ふたたび代表選手となるなど、30歳を超えてなお活躍し、わがサッカー史にこの人ありとうたわれた名センターフォワード。
 
 とくに体格に恵まれてはいないし、とくにスピードがあったわけでもないが、絶妙のボール扱いと戦術眼から生まれたそのサッカー論は、ときに仙味すら帯びてサッカーの核心を突く。クラマー氏によって再建された日本サッカーに、ようやく独自の個性を求める声が聞かれるとき、川本サッカー論は少なからざる興味を惹くものと思われる(関西蹴球協会理事長・日本協会常務理事)。

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 聞き手には、同じく関西にあって、つねにサッカー論を戦わせている賀川浩氏(サンケイ・スポーツ)、大谷四郎氏(朝日新聞)が随時当たる。

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