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クラマーからの脱皮 自分で考え、自分で工夫することが大事なのだ


語る人 川本泰三
聞き手 大谷四郎 賀川浩


川本 この間、将棋の升田九段がテレビの野球でゲストに出てたが面白かったよ。彼が言うには、将棋の駒には、どんな棋士にも好きな駒と嫌いな駒があるそうな。ところがね、下手クソは嫌いな駒を使えないというな。

――使いこなせないということですか。

川本 嫌いやからなるべく使わんのやな。それがね、八段ぐらいになればやっぱり使うらしい。好きな駒と同じようにな。ところが、こんどは九段以上になると嫌いな駒の方を好きな駒よりもむしろ仰山(ぎょうさん)使うそうや。

――ほうー、面白いな。

川本 ええこと言うな。それからもう一つは、割によく言われることだが、競技したり勝負するには、楽しんでやらなあかん、ということ。金田(元プロ野球投手)もよく言うが、結局、楽しんでやっているのと、ただ苦しんでヒーヒーやっとるのとでは、駒の扱い方の自由さが違うというわけや。楽しんでやっていると自由な駒の扱いができる。これはグラウンドの上でも同じことや。シュート一本やるにしても、こいつはしめたと思ってやるのと、どうしたらええのかと心配しいしいやるのとは、自然と動作が違ってくるわな。動作に拘束される部分がないというか、体にも、どこかにしこりが生まれるという状態ではないわけだ。

――まあ、生き生きとしたプレーになるのでしょうな。ところが、ミドルセックス・ワンダラーズの試合を観ていて感じたのは、期待の若手がどうも生き生きしてやっていないようだったが。

川本 その通りや。若手を伸ばそうという試合なのだが、うまくなっていないね。しかし、考えようによれば不思議でもないのだ。
 というのも、古い連中もまたここ数年少しも伸びていないということだよ。釜本、小城、杉山、宮本輝紀すべてしかり、そうしたサッカー・ブームを築いた頂点の連中が東京五輪当時と比べて、個人的に技術を開発して進出したかといえば、ほとんどノーだ。ただ判断力とかいわゆるゲーム能力は上がっているよ。そりゃあれだけ試合経験を積んでるからな。

 ところが個人能力は上がっていない。例えば、彼はあんな姿勢からシュートがやれるようになったとか、あんなフェイントをかけるようになったとか、そうしたものが東京大会以来出てきておらん。古い連中ですらそうなんだ。釜本など極言すれば、相変らず素質のワク内に安住しているにすぎない。一昨年だったか病気して、治って出てきたら翌年さっそくベスト・ストライカーになった。他が伸びとらん証拠や。むしろ退歩しとるかもしれん。

――古い連中は落ちてくる、若手は伸びないでは、パッとしないのも当然というわけか。

川本 その原因は何か。いうなれば、クラマー・サッカーの欠陥だよ。と言ったらちょっと語弊があるかも知れんが、クラマーに教わり始めて以来、選手は自分で考えることをせんようになった。これだよ。残念ながら、自分で考え、自分で工夫する面が、クラマーの手にかかった時代から減ってきたね。これは重大な問題やで。彼の言うことだけをやっておればええということ、それでオリンピックのあのレベルまで伸びてきたことは、それなりに認めるよ――だがそれがピークに達したとき、その裏が出てきた。

――1から10まで教えられすぎたかな。

川本 ことに個人プレーなんていうものは、あるところまで行ってしまうと、あとは人が教えるものでも、人から教えられるものでもないのだよ。100パーセント自分で考え工夫するものなんだ。サッカー・スクール程度だったら、こうしてけれ、こういうキープの仕方をしろなどと教えてもらってやってゆけるが、日本の代表というレベルはそんな段階やないのや。

――教えうるサッカーの限度までクラマーが持ち上げてくれたが、これからはさらにその限度を乗り越えないといかんときですな。

川本 これ以上のサッカーをやろうと思えば、土台の個人技を今のレベルから一段と上げないといかんときだよ。というのはつまり、自分で考えてやらないといかん段階になったのに、考えてやる習慣がない連中だから、どうしようもないという面が出てきているわけや。肝心の伸び盛りのときに、自分で工夫してやっていなかった弱さやな。工夫して突き当ってバックして、また出ていって突き当り……という風にして自分の道を見つけるやり方をしておらん。しかし個人を伸ばすにはこれしかやり方はないんだ。そのための思考力を欠いてしまったな。

――この間、どこの座談会だったか、スペンサーが、日本のプロ野球の欠点は何か、と問われて、「自分で考えないこと」と言うてる。同じですな。

◆ ◆ ◆

川本 それから強くならない理由にもう一つある。いまの将棋の話ではないが、いろんな性能の駒をそれぞれに生かすのが将棋や。そうすると、吉村という選手はさしずめ将棋でいえば桂馬に当る。彼の特異なプレーが要求されるわけや。ところが、全日本チームにはいった吉村は桂馬の役をしとらん。歩になってしもうとる。そうした扱い方、考え方が一つの問題なんだ。選手それぞれの性能を考えてのチーム構成なり戦略戦術が必要なんだ。ちかごろよくいう、全員攻撃全員守備、何でもやれるオールラウンド・プレーヤーといった“うたい文句”にオレは猛烈に反発するよ。もっと特異性を生かさないといかん。

 ウイングも然りだ。みんな崇め奉っとる杉山も、タッチプレーをして初めて生きる。それをしない杉山なんて大した選手やない。それが次第にタッチプレーをやらんようになった。いま外国にもブラジル以外はええウイングは少ないらしい。それに守備を重視すること――これは間違いじゃないが――そうした傾向もあって、タッチプレーだけ、あとは遊んどるようなむかし風のウイングを置かなくなったのだろうが、その代わりにオーバーラップ、バックスのせり上がりということでちゃんとウイングゾーンを使うことは考えている。
 だが本当はスタンレー・マシューズがこれからのサッカーにも必要やと思うな。桂馬が必要であるがごとく、ヤリ(香車)も必要じゃないかな。

――素人の将棋は、ヤリなんかほとんど使わんからね。

川本 言い換えると、個性を生かすことだよ。もう少し自分を大事にして、そのため周りから反発くらってもええがな。もしチームのためにということで、自分の個性を殺せといわれたら、大いに反抗せい、おとなしく犠牲になるな、ということや。それを無理しても強行してたら、こんどは周りが逆にそれに合わしてきよる。するとその特異なものがいつの間にかチーム・プレーのなかに入ってくるんだよ。チーム・プレーの発展とはそういうものなんだよ。こうした個性的なプレーを生かすために、クラマー以後には制約が多すぎないかという気がしないでもないんだがね。例えばA−B−Cとパスをつなぐパターンを考えているときでも、ときによるとAはBに渡さないでドリブルした方がいい場面があるんだ。それが出来ない。そこに自由裁量のプレーが出てこないうらみがあるね。こうするな、ああするなということはなくても、こうしろ、ああしろということが多すぎて、それ以外のことがしにくくなっていないか、と思うのだが。


(『イレブン』1971年9月号)


<試合記録>

日本代表 2−1 ミドルセックス・ワンダラーズ(英国)
1971年7月7日 横浜・三ツ沢競技場
主審:永嶋正俊
試合開始:19時13分

横山謙三→瀬田龍彦  アンソニー・マッキー
小城得達         トーマス・バー
古田篤良         ノーマン・スミス
片山洋          ジョン・ターナー
川上信夫         ジョン・ローズソーン
荒井公三         ジョフリー・アンソニー
宮本輝紀→湯口栄蔵  デニス・ムーア
足利道夫→大野毅   ジェームス・スミス
釜本邦茂         アンドリュー・ウインザー
上田忠彦         ジョン・バターフィールド
杉山隆一→永井良和  ジョン・ラザフォード

監督:岡野俊一郎    監督:ジョン・ウィークフィールド

得点:杉山隆一(28分)上田忠彦(65分)ラザフォード(88分)

(後藤健生 『日本サッカー史 資料編』 双葉社 2007 p.104より)


*関連リンク

・ミドルセックス・ワンダラーズは英国のアマチュア選抜チーム
・升田幸三
・金田正一
・ダリル・スペンサー
・スタンレー・マシューズ

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