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サッカーの極意は選手が掴むもの ソウルでの敗因を探る


語る人 川本泰三
聞き手 大谷四郎 賀川浩


大谷 ソウルでは残念ながらやられた。その敗因は何か。この際それをじっくり反省するのは肝心なことですな。

賀川 大会当時、関係者から言われたのは、まずコンディショニングの失敗。負傷者も多かったが、チームとしてのまとめの失敗というようなことも含めてもの話で、それに雨で不運であったとかね。日本はマレーシアに対する偵察とか研究が足りなかった。ところがマレーシアは日本に対する準備を十分にしておった。要するに全体にゲームへ持ってゆく流れが拙かったということは一応反省されていますな。

大谷 確かにそういう敗因もあったろうが、反省がそれだけじゃつまらんな。

賀川 そういうことはまあ表面的なことで、それをもっと掘り下げて、そのよって来たる所以(ゆえん)に気付いてくれないと困りますな。

川本 つまり肝心なのは技術的に日本は拙かった、という反省だね。これをしてくれないと困るんだ。

大谷 技術的に日本は勝てると、チームの監督なりコーチなりは本心思っていたでしょうかね。

川本 それはわからんが、従来から、韓国と試合せずに、韓国がどこかとやっている試合を観ていて、ああ、これやったら勝てるというような見方を何回もしてきているね。外で見るのと、実際やるのと違うんだ。実は、ボクはいまの韓国に余り感心しない。メキシコ予選の日本やったら楽に勝っているだろう。そんな気がする。いうなればいまの韓国は、かつての韓国に比べると、いわば牙を抜かれた虎だよ。いまは凄味が全くない。

大谷 それに負けたのやからな。

川本 ソウルからの帰りのクラマーに東京で会って話したのだがね、それをかいつまんで言えば、メキシコ五輪が終わったあとの若手への切替えがおくれ、そのシワ寄せがきている。もう一つは、サッカーのチーム・プレーは個人の技術で支えられている。だからこれ以上のチームを作ろうと思えば個人の力を上げることが前提である。それはわかりきったことであるのは、その個人技術が少しもうまくなっていない。これが今回の敗因なのだ。クラマーもそうだと言いよる。

賀川 それはこの放談で以前にもすでに触れているのだが、技術的には個人技の開発にしぼられるわけで、それが、とりもなおさずこれからの問題になるわけですよ。

川本 それをあの試合にあてはめると、1対1の勝負をしていないということになるのだ。
 一つの例が、対マレーシアの後半に上田が右のウイングに出た。その上田へ3本続けてクロスパスが出た。ペナルティ・エリアの角ぐらいかな、敵と1対1だ。そのとき中に釜本がいた。マークされていた。だが上田は3本とも釜本へ上げたな。そこに一対一への執念の乏しさをみたね。なぜ上田はあのとき、一度でもゴールラインまで突込んでセンタリングしようとしなかったか、あるいは切れ込んで左足でシュートを狙おうとしなかったか。連続3本なんだ。しかし上田を攻める気にならんのだ。

賀川 上田でなくてもやはりそうしたでしょう。

川本 そうなのだ。ボクの言いたいのはそれなんだ。チーム全体がそういう思想になっていることに問題があるのだ。上田は何かハプニングをやりそうな男とみていたのに、その彼にしてそうだ。

大谷 1対1の勝負をしているのは釜本以外には永井だけだったね。それが最もチャンスをつくっている。それから台湾のときの杉山−宮本輝、永井−釜本、韓国のときの杉山−永井の得点など、すべて1対1の勝負のあとに生まれたことを考えないかんな。

◆ ◆ ◆

川本 要するに個人能力を上げることがいつも先決であるということだ。そこまではクラマーと同じ意見なのだが、では個人の能力を上げるのにどうすればよいか、この点になるとクラマーと意見が全く違ったね。クラマーは優秀なコーチがおれば個人技を引き上げることが出来る、と言いよる。ボクはね、試合のやり方、チームの戦術戦略の面ではコーチに非常に大きなウェイトがかかると思うが、だが個人を上げてゆく、しかしサッカー・スクールジュニアではなく、少なくともナショナル・チーム級あるいはそれに近い選手、つまりかなりいろいろな球扱いも出来る選手をそれ以上に伸ばすのは、その人間の自力である、と思う。
 人にうまくしてもらうのではない、自分の力でうまくなる以外にはない、これが最大のポイントだとボクは思う。コーチの立場、選手側に立つ立場のちがいはあるが、この点をどう受け止めるか、今後の指導者の重大な課題じゃないかな。

賀川 憤せざれば啓せずでね。いまのコーチはそうでない面が多い。

川本 またこういうことがある。試合は最大の教師であるという。だからとにかくゲームの経験を積ませないといかんと、これまでせっせとやってきたのだが、その裏も見ないといかん。最近盛んなボーリングのプロ選手が言っていたが「ゲームが多過ぎて練習出来ない」とね。ゲームでうまくなるということもある。だけれども、自分で考えたり工夫したりするのはゲームでは出来ないんだ。

大谷 ああでもない、こうでもないと、試合ではやれないからな。またチームのやり方に制約されるしね。

川本 こういうこともある。同じことを同じ時間をかけて練習するときに、ホイッスルでやるのとホイッスルなしでやるのとは効果は全く違ってくる。ホイッスルでやるというのは誰かにやれと言われてやることで、ホイッスルなしとは、誰にも言われず自分でやるということなのだ。身につきようがちがうよ。
 これと少し関連するがね。昔から日本人と外国人とでは、同じことを教えられても受取り方が違うこともあるよな。

 ボクたち昔のスポーツ人かも知らんが、日本のスポーツには由来“道”というものに近付いた考え方が入っておる。柔道、剣道の“道”や。だからグラウンドで心の在り方まではゆけないと思ったものは、例えば川上のように禅寺へ行ったり、双葉山(相撲の故・時津風理事長)のように滝に打たれたりしよるんだ。
“道”というものは、トレーニングの在り方ともいえるな。サッカーの基本というか、本質というか、それはいまも昔も変わりはないのだ。万国また同じだ。クラマーもまた同じだよ。コーチがそれをつかませるのか、選手自身がつかむのか。ボクは選手だというわけだ。クラマーが優秀なコーチがおればよいというのも、多分あのクラスの選手ならば自分でつかむ能力もある程度持っていることを前提としているのだろうがね。しかし、あるコーチがこう言うのだ。個人を強くしろ、1対1で勝てというだろう、すると選手は隣に味方がパスを受けに来ても自分で抜こうとして困まるとこぼしよる。

 そりゃもう少し段階の低いところの話じゃないかといったが、裏をかえせば、コーチの言う通りにやっておれば事終れりとしている証拠でもあるね。だから必要なことは、選手自身に何とか考える力を起こさせることだろう。そのためには、あるところで“選手を突き放せ”とボクはコーチ連中に言いたいね。


(『イレブン』1971年12月号)


<試合記録>

ミュンヘン五輪予選

日本 0−3 マレーシア
1971年9月23日 韓国・ソウル運動場 主審:リー・カン・チ(香港)
試合開始:18時00分

横山謙三         ウォン・カム・フク
宮本征勝         ディル・アクバル
山口芳忠         M・B・アブダラ
片山洋          クリシュナサミ
荒井公三         チャンドラン
富沢清司         ソー・チン・アン
宮本輝紀         イブラヒム
ネルソン吉村大志郎    フセイン
足利道夫→上田忠彦    アマド・バカル
釜本邦茂         ウォン・チュン・ワ→ヤップ・エン・コク
杉山隆一         ルイ・ルン・テク

監督:岡野俊一郎     監督:ハジ・イドリス

得点:アマド・バカル(46分、82分、84分)

(後藤健生 『日本サッカー史 資料編』 双葉社 2007 p.107より)


*関連リンク

上田忠彦(Wikipedia)
川上哲治(Wikipedia)
双葉山定次(Wikipedia)

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