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第19回 杉山隆一(1)メキシコ五輪銅メダルのパスの名手は突進とひらめきのゴールゲッター

無計画の中の巧さと速さ

 1960−70年代の日本のスポーツ好きは、たとえサッカーのナマの試合を見た経験はなくても、杉山隆一、釜本邦茂の名を知らぬ者はいなかった。
 ひとつには、東(三菱重工)と西(ヤンマー)という東西対抗的(巨人・阪神)な面を持っていたこと、ひとつには2人ともサッカーで人を最も興奮させるゴール・ハンターであったことが、アマチュアでありながらプロ野球のスター選手並みの人気となった要因だろう。
 1968年メキシコ・オリンピックで得点王となった釜本のゴール奪取はあまりにも有名。その釜本との間の「目に見えぬ糸があって、その上をボールが通ったと思わせるほど」のパスを供給した杉山は、銅メダルの歴史では“パスの名手”となっているが、本来は傑出したストライカー。
 ただし、この2人は、体格もプレーの質も異なっていた。2人の成長期に日本代表の監督であったロクさんこと高橋英辰(たかはし・ひでとき)は、「アジアで恐れられている2人のプレーは異質であり、その違いは計画性の点に顕著であると思われている。釜本の強みは、計画的で緻密な巧妙さと(体の)大きさによる優越であり、杉山のそれは無計画の中から生まれる巧さと速さである。杉山が計画的に行なうプレーにはさほどの脅威はない。しかし、一瞬のうちに無意識に表現されるプレーは美しい」と記している。
 この言葉は67年10月のメキシコ・オリンピック予選最終戦の彼の決勝ゴールを語る前段で述べたもの。今なら、ロナウジーニョのような“即興的”と言い換える人もあろうが、ロクさんの「無計画の中から生まれる巧さと速さ」もまた、言い得て妙というべきだろう。


清水東の杉山、山陽の宮本

 杉山隆一に初めて会ったのは1959年4月の第1回アジアユース大会のときだった。アジアの若手育成のためにと計画された初の20歳以下の大会に、日本協会(JFA)は高校選抜チームの派遣を決めた。年齢差によるハンディはあっても、全国の高校生に夢を持たせるためで、1月の高校選手権の出場選手の中から優秀選手をピックアップした。選考委員であった私は、前年秋の富山国体で優勝した清水東高校の杉山隆一と準優勝の山陽高校の宮本輝紀は、選手権大会に出場していなくても◎がついていたのを知った。宮本は中盤のキープとシュート力で、杉山はドリブル突破からのゴールで同世代の中では卓越していた。
 1941年7月4日生まれの杉山は、小学生のころは特に足が速いわけではなかった。清水市の袖師中学に入ってサッカーを始めたが、父親・正作さんは「手が使えないスポーツをするのか」と驚いたそうだ。50数年前には、清水でさえそういう状態だった。練習もボールテクニック云々よりも、もっぱら「走れ」の中で、手抜きをしない、負けず嫌いの杉山は、次第に脚力をつけ、清水東に進んでやがて、その速いドリブルで知られるようになる。富山国体での雨中の決勝戦で、自らの突破とシュートで決勝点を挙げて初の全国タイトルを握った。


ユース第1戦で成功、左ウイング

 そのころの日本サッカーは、1956年のメルボルン・オリンピックに予選でライバル韓国を抑えて出場しながら、本大会の1回戦で敗退(ノックアウト・システム)、1958年、東京で開催した第3回アジア競技大会では1次リーグで最下位となり、まさにどん底時代といえた。
 64年に東京オリンピック開催を目指すスポーツ界にあって、代表チームの低迷はまさに大問題、若年層の育成強化は早急のテーマだった。
 そんないささか沈痛な空気の中でマレーシア・クアラルンプールの大会で、日本のユース代表が3位、銅メダルを得たのは、前途に光明を見る思いだった。
 高橋英辰監督と18人の選手たちは4月19日の第1戦(グループ分け試合)でシンガポールを4−0で撃破した。
 高校生にとって初の海外遠征、初のナイターという初づくしの中で、チームは桑田隆幸(広島大付属高)のクリーンシュートで先制し、杉山のドリブルシュートによる追加点で落ち着き、彼の3点目と田村文彦(明星高)の4点目で相手を突き放した。
 清水東では左のインサイド、今で言う攻撃的MFであった杉山は、この試合で左ウイングを務める。浦和西高の田村公一という左サイドがいたのだが、慶応大学への進学手続きのために、現地への到着が遅れた。そこで、利き足は右だが、左も蹴ることができて、スピードのある杉山を左アウトサイドへ置いた。
 ピッチを広く使うこと、そのために両翼にドリブルのできる選手を起きたいというロクさんの構想。それが成功して4−0の快勝であった。参加チームを8チームに分け、日本はマレーシア、韓国、香港とともにA組のリーグで優勝を争い1勝2敗で3位となった。帰国後、私は仲間内で話し合ったとき、3人は日本代表にも残るだろうと言った。そのひとりが杉山であったことは言うまでもない。


(週刊サッカーマガジン2005年5月17日号)

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