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第20回 杉山隆一(2)突破力を生かすためにはまず巧みなトラッピングを。名将クラマーの個人指導

アジアユースで他国の脅威に

 アジアユース大会は、のちにユース選手権となり、さらにワールドユース選手権につながるアジア予選となるのだが、杉山隆一はその初期の第1回から第3回まで連続出場した。ただし、成績は第1回の3位を超えることはできなかった。経験を積んだ1961年の第3回には第1戦の15分に負傷して完全には動けなかった。明らかに彼の足へのファウル・タックルで、19歳の杉山はすでにアジアの同世代で“狙われる”存在になっていた。
 この年の5月28日、国立競技場での対マレーシア代表との試合で、杉山は交代出場して19歳で代表初出場、6月の対韓国、ワールドカップ予選第2戦にはフル出場した。杉山にとって幸いだったのは、1960年秋からデットマール・クラマーが日本代表チーム強化のために来日するようになったこと。
「国際舞台で日本代表が勝つためには“機敏で勤勉”なカラーを生かすこと、そのためにはテクニックアップ」と考えるクラマーにとって、杉山の速さは欠くことのできないチームとしての武器。前を向いてボールを持てば強い彼に、まず身につけさせるのはボールの受け方で、後方からのパスを戻って受け、スムーズに素早く前を向くことが大切だった。
 代表チームの合宿で、杉山が一人だけグラウンドに戻り、クラマーと高橋英辰監督がつきっきりで、タッチライン際のトラッピングのシミュレーションを繰り返したこともあった。
 のちに伝説となる正確なクロスパスをはじめ、杉山隆一の左サイドのポジションプレーが、優れたコーチの指導による反復指導で精度を高めたその過程を知ることができたのは、私にとっても大きなプラスだった。


東京オリンピックでの活躍

 1964年の東京オリンピックで、日本は1次リーグD組の第1戦でアルゼンチンを破る。10月14日の、この3−2の逆転劇は、相手が南米のサッカー強国の代表であるだけに大きな反響を呼んだ。
 前半に0−1とリードされながら、後半に杉山のドリブルシュートで同点、再びリードされたのを川淵三郎(現JFAキャプテン)へのヘディングで追いつき、小城得達の勝ち越しゴールでシーソーゲームをモノにした。杉山は自らのゴールだけでなく得点に絡む左サイドの攻撃の発起点となった。
 本来なら4チームのところが、イタリアが欧州予選の際の選手のアマチュア資格に問題があって不参加となり、3チームによるリーグとなったため、日本は次のガーナ戦は中1日の休み、相手は中3日の休養というハンディを負い、2−1とリードしながら後半に崩れて2−3で敗れた。この試合で杉山は先制ゴールを決め、八重樫の勝ち越しゴールのためのパスを供給している。
 準々決勝の相手は東欧の強豪チェコスロバキア、両チームのパス攻撃の展開はそれぞれ見事だったが、力の差は時間とともに表れ0−4で敗れた。チェコのビトラルチェ・コーチは、日本代表の欠点として意外性のないことを指摘したが、同時にこの日「杉山が出場しなかったのは、非常に幸運」と語っている。
 東京オリンピックの開催は、その見事な運営によって、日本が敗戦から再興して、国際社会への仲間入りを果たす大きな一歩となった。この大会に浮沈を懸けたサッカーは、クラマーと長沼健、岡野俊一郎という30歳代の若いリーダーと、選手たちの頑張りで、ともかくも1勝を挙げて、メディアと世間に認められた。


20万ドルの足とピンチランナー

 杉山隆一の快速を飛ばして攻撃を切り開くプレーは、メディアの喝采を浴び、敗れた相手、アルゼンチンが20万ドルの値をつけたという話が広がって、当時のレートで7000万円、プロ野球選手よりも高額ということで、「20万ドルの足」はしばらく話題となる。
 この年、秋の関東大学リーグで、3年生の杉山を左ウイングとする明大は5勝2分けで4勝3分けの早大を抑えて大正13年の創立以来41年目で初優勝した。優勝を懸けた早大との対戦は、杉山−釜本の対決の人気もあって、駒沢競技場に多くの観衆がつめかけ、当日入場券の発売の遅れからキックオフの時間が遅れるという、それまでの閑古鳥の鳴くサッカー会場の異例の事態となった。
 プロ野球界で名将といわれた三原脩監督(故人)が「杉山という足の速いサッカー選手をピンチランナーに起用すれば人気が出るのではないか」――と考えたという。私と同じ新聞社で監督と親しい記者が「三原さんはかなり乗り気だから、賀川くんどうかナ」と言ってきたものだ。もちろん、こちらは乗れる話ではなかった(しばらく後に陸上競技の短距離選手がピンチランナーになった。うまくいかなかったが……)。
 こんな人気者の杉山が明大を卒業して66年に三菱重工へ入る。日本サッカーリーグ(JSL)2年目。前年に創設され、企業8チームによる初の全国リーグは、東京オリンピックの直後に各スポーツ団体が小休止状態の中での新企画としてメディアに好評であったのが、「20万ドルの足」の加入で、華やかさを増し、三菱重工はリーグきっての人気チームとなった。


(週刊サッカーマガジン2005年5月24日号)

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