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第22回 ケビン・キーガン(1)リバプールで欧州チャンピオン、HSVでドイツを制したマイティ・マウス
イングランド最多優勝のリバプール
リバプール対ACミランのチャンピオンズリーグ決勝の結果は、間もなく明らかになるが、もし、イタリアのACミランが勝てば7度目の優勝。イングランドのリバプールなら5度目となる。
イングランドでリーグシステムが変わり、かつての1部リーグをプレミアシップと呼ぶようになってから、マンチェスター・ユナイテッドが優勝回数が多く、人気も一番――、ここしばらくの日本でも最も有名なチームだが、そのユナイテッドの本拠、マンチェスター市の西方35キロにある港町リバプール市も、また熱狂的なフットボール都市。この町から生まれたあのビートルズと並んで、リバプールFCは市民の誇りとなっている。
なにしろ、サッカーの本家イングランドでのリーグ優勝が1901年の初制覇以来18回(マンチェスター・Uは15回)で最も多く、ヨーロッパでの成績でもイングランド随一なのだ。
そのリバプールのチャンピオンズカップ初優勝のときに、最も目覚しい働きをしたのが、マイティ・マウス(偉大なネズミ)と呼ばれたケビン・キーガンである。マウスのニックネームどおり、1メートル73センチと小柄な彼は、大型、頑健でなるイングランドのリーグで名声を勝ち取っただけではなく、当時、欧州最強と見られた西ドイツのブンデスリーガのハンブルガーSV(HSV)に移り、ここでもリーグ優勝した。次の年に再び欧州ナンバーワンを目指し、決勝でノッティンガム・フォレストに敗れて、英・独両チームでの欧州タイトル獲得は果たせなかったが、マイティ・マウスは両国のリーグ優勝の栄誉に輝いた。
HSVで高原(直泰)の先輩になる彼だが、のちに再びイングランドに戻り、その選手生活を終えたあと、監督としてニューカッスル・ユナイテッドやフルハムで経験を積む。その選手時代にも、監督時代にも来日した彼が2002年ワールドカップを目指すイングランド代表監督を引き受けながら(1999年5月〜2000年10月)途中で解任されたのは、日本に数多くいるキーガン・ファンには残念だったに違いない。
小さいためにテスト落ち
それはともかく、日本の選手に比べても小柄な部類に入る彼がサッカーの本家のリーグの激しさの中で働き、代表チームのキャプテンになってゆく足取りを眺めることは、あるいはプレーヤーの成長の一つのヒントとなるかもしれない。
ケビン・キーガンは1951年2月14日、中部イングランドの小さな町アームソープで生まれ、小学生のころからサッカーに熱中した。すばしこくて、上手で、プロになりたいと思っていた。学校を卒業してプロの門を叩く。コベントリーのテストでは、体が小さいためにパスできずに、スカンソープという町に本拠を置く、3部のスカンソープ・ユナイテッドでプレーすることになった。
3年プレーを続けているうちに、リバプールの名監督、ビル・シャンクリーの目に留まり、3万5000ポンドの移籍金で1部リーグのリバプールに移る。20歳のときだった。
名将・シャンクリーとの出会い
シャンクリー(1913〜1982年)は、リバプールを2部から1部に引き上げ、現在に至る栄光の歴史の基礎を築いた監督である。母の兄弟2人がプロのサッカー選手だったから、DNAがあったのか、5人の兄弟はすべてプロ選手になった。自身がHB(MF)としてプレストン・ノースエンドで活躍すると、監督となっても驚くべき情熱で、選手を指導し、チームの戦力アップを図った。
1982年9月、彼が亡くなったとき、リバプールの市庁舎には半旗が掲げられ、葬列には市の要人すべてが参加し多くの市民が見送った。アンフィールドのゲートにはおびただしい数の花束が集まり、ファンが彼を偲び讃えたのだった。
キーガンは、のちに私のインタビューに答えて、「ビル・シャンクリーという素晴らしい監督と出会ったことが幸いだった」と語ったが、プロフェッショナルとして、ひたすらサッカーに打ち込む姿勢を学んだという。
3部での124試合の経験を持つ20歳の彼に1部の厳しい環境が成長を促す。もともとボール扱いは上手だった。それに磨きをかけた。体も強くなった。1メートル73センチ、決して大きくはないが、がっしりした体つきになった。
ヘディングの練習にも回数をかけた。スタンドの壁にボールを当て、そのバウンドをヘディングしながら、スタンドの端から端まで、つまりピッチいっぱいに動いた。小柄でもヘディングが強く、ゴールすることも、パスを出すことも上手になった彼は言う。「ヘディングの上達は、その練習の回数に比例する」と。
1971−72年のシーズンに1部リーグにデビューした彼は、アンフィールドの注目の的となった。72年にはイングランド代表としてもデビューした。
(週刊サッカーマガジン2005年6月7日号)