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第23回 ケビン・キーガン(2)チームを欧州一に導きディステファノに比べられたリバプールの最終戦

28年前5月25日のローマ決戦

 リバプールがチャンピオンズリーグの決勝でACミランを破って優勝した。0−3からの追い上げだから“コップ”たちにはたまらない勝利だったろう。
 日本で今年開催される「FIFAクラブワールドチャンピオンシップ・トヨタカップジャパン2005」にヨーロッパの代表としてやってくるハズだから、日本のサッカー好きの間でも「YOU'LL NEVER WALK ALONE」をはじめとする、レッズについての、さまざまな話題が語られるだろう。
 このイスタンブールの決勝と同じ日、28年前の1977年5月25日、ローマでのチャンピオンズカップ(現・チャンピオンズリーグ)でリバプールが初優勝したとき、この連載の主人公、ケビン・キーガンは、まさに26歳の働き盛りだった。3部のスカンソープから名将ビル・シャンクリーによって見出され、リバプールで1部リーグ(現・プレミアシップ)のデビューを果たしてから6年を経ていた。
“ここ”というときに仕事をするのがスタートは、多くが言うところだが、キーガンは、71年8月14日、リバプールでの1部リーグ、デビュー戦でいきなりゴールを決めて、対ノッティンガム・フォレスト戦3−1の勝利のヒーローとなった。彼は最初のシーズンのリーグ42試合のうち35試合に出場して9ゴールを挙げ、長身のトシャック(13得点)やアイリッシュのスティーブ・ハイウェイ(8得点)らとともにこのチームの攻めの威力となった。チームはこのシーズン3位となり、前年より順位を2つ上げ、次の年に優勝、2シーズン連続して2位のあと、75−76シーズンに再び優勝、次の76−77年にも連続優勝(チーム通算10回目)を遂げたのだった。


イングランドの2冠は逃したが

 この77年はキーガンにとって、リーグの3回目のタイトルに加えてFAカップとの2冠の望みもあったが、5月21日のウエンブリーの対マンチェスター・ユナイテッドとのファイナルは、結局1−2で敗れてしまった。リバプールのサポーター、彼らのゴール裏の席の名から“コップ”と呼ばれる熱烈ファンの中には、ウエンブリーから、そのままローマへ入ってきた人たちも少なくなかった。
 イングランドはサッカーの母国としての誇りが高いが、長年にわたって海外への関心が低かった。そのため欧州でのクラブ王座での勝利は送れ、マット・バスビーの先見性によってマンチェスター・ユナイテッドが欧州チャンピオンのタイトルを取ったのが1968年だった。そのあと10年近く、欧州ナンバーワンは他国のクラブの手にあり、リバプール自身も73−74は2回戦で退いていた。
 この年リバプールは1、2回戦を順調に勝ち進み、準々決勝はフランスのサンテチエンヌ(前回準優勝)、準決勝はスイスのFCチューリヒを下し、ファイナルの相手は西ドイツのボルシア・MG。ドイツではバイエルン・ミュンヘンとタイトルを争う強チームで、74年ワールドカップで、クライフを抑えたフォクツや、ドイツ代表のボンホフ、ハインケス、将来性あるシュティーリケがいた。そしてまたデンマークのアラン・シモンセンも――。


鋭い動きで相手の守りを崩す

 リバプールの監督はすでにシャンクリーからボブ・ペイズリーに代わっていた。UEFAカップの優勝を経験した彼には、このタイトルが最大の目標だった。GKはクレメンス、右の攻撃的なDFのニールや優れたCBのヒューズ、MF陣にはマクダーモットやキャラハンがいた。FWはハイウェイが威力を増し、右サイドからスタートするキーガンの動きは変幻自在、捕え難くなっていた。彼らにはUEFAカップでボルシア・MGを破っていたのが自信となり、ローマの夜もまたリバプールのものだった。
 そしてキーガンの働きは、その勝利をいっそう輝かしいものにした。ゲームを組み立て、相手を追い、自らの鋭い動きで相手の守りに穴を開けた。「彼をマークしたフォクツは、キーガンに支配されたと思っただろう」とは、この試合を見たブライアン・グランビル記者(イングランド)の記述である。
 前半に1−0とリードしたリバプールは、シモンセンに同点とされると、CKから2点目、ハイウェイのキックのときにキーガンにボルシアMGの2人がつられ、そのスペースへトミー・トミスが飛び込んだ。止めとなった3点目はキーガンを追ったフォクツのファウルによるPK(ニールが決めた)だった。英国の記者の中には1960年チャンピオンズカップのディステファノ(レアル・マドリード)に比べるものもあった。
 このリバプールの優勝はイングランドのサッカーが再びヨーロッパの舞台で脚光を浴びる大きなステップとなった。この年から1984年まで8回のチャンピオンズカップでイングランド勢が7度タイトルを握るのだ。
 キーガンはこの試合のときすでにリバプールを去ってドイツのクラブでプレーすることを決めていた。最後の試合にマイティ・マウスは本領を発揮した。


(週刊サッカーマガジン2005年6月14日号)

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