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第24回 ケビン・キーガン(3)クローズド・マークされることはこちらもクローズド・マークしていること

バイエルンもキーガンが欲しかった

 日本サッカー殿堂の「掲額セレモニー」のために来日したデットマール・クラマーに久しぶりに会いインタビューした。その記事は次号に予定されているが、そのとき彼にサッカーマガジンのこの連載のページを見せたら、彼は「ケビン・キーガンはいい選手だった。私がバイエルン・ミュンヘンの監督をしていたとき、彼が欲しくて交渉をした。いいところまでいったんだが、結局ハンブルガーSV(HSV)に行ってしまった」と。
 キーガンが中部イングランドの小さな町で育ち、リバプールで1977年に欧州チャンピオンとなったこと、そして、その直後にドイツのHSVに移ったことを前号までの2回で紹介した。そのころ、監督だったクラマーも彼と交渉していたらしい。
 私がキーガンに興味を持ったのは、70年代後半に、日本の足踏み状態が続いて、またまた日本人のサッカーの素質についての論議が多くなってきたこともあった。曰く、体格が小さい、曰く、体力がない、曰く、農耕民族だから集団的思考が先に立つ、などなど…。
 長くサッカーを見続けてきたから、身体的素質に恵まれた選手も(数は多くなくても)個性の強い選手も知っている。
 もちろん、小柄で上手で、体力も走力もあった人もすぐに名前を挙げることができる。しかし、そうした過去の人たちの例記よりも世界のトップで活躍している人たちから、日本のプレーヤーの参考になりそうな人を取り上げ、日本からも優れた選手が出て不思議でないことを知って欲しかった。
 小学校を卒業するときには150センチに足らず、成長後も173センチのキーガンは、いい範例に見えた。何しろ大男ぞろいの英、独でスターとなったのだから……。
 同じころ、80年代のフランス4銃士の一人、アラン・ジレスも、82年ワールドカップで優勝したイタリアのブルノ・コンティにも注目した。


心に残る彼の言葉の数々

 キーガンがHSVの3年間で90試合に出場して32得点し、79年にはリーグ優勝、80年には欧州チャンピオンズカップで準優勝した。このときの優勝チーム、ノッティンガム・フォレストが第1回トヨタカップに出場したことをご記憶の人も多いだろう。ちなみに79年は高原直泰の生まれた年でもある。
 HSVからイングランドに戻ったキーガンは、サウサンプトンとニューカッスル・ユナイテッドでプレーする。83年のジャパンカップ(のちにキリンカップ)でニューカッスルとともに来日してマイティ・マウスの片鱗を見せた。
 このときサッカーマガジンの企画で彼にインタビューし、彼の成長期の話や全盛期の話をじっくり聞いた。
 面白かったのは「イングランドでは相手がゴールに近づけば、マン・フォア・マン・マークになるが、ドイツでは中盤からマン・フォア・マンだ」という話から、キーガンには「このドイツの方がやりやすかった」こと。「マン・フォア・マンだと、マークされているこちらにも相手が見えているから、かえってやりやすかった」と――。
 クローズド・マークされるということは、自分も相手をクローズド・マークしているという発想がやはりユニークだった。もちろん、キーガンには小さなステップ・ターンや長い距離のランというマークを外すための有効な手段があったからではあるが――。


不運の続くワールドカップ

 彼のキャリアの中で惜しいのは、イングランドとドイツの2つの大国、そして欧州の舞台での華やかさに比べて、“世界”では不運であったこと。前記のHSVでも欧州一になっていればトヨタカップで、あるいは“世界一”になれたかもしれない。イングランド代表として72年から82年までの10年間で63試合に出場し、21得点も記録しながら、ワールドカップの経験は82年スペイン大会だけ。それも直前に痛めた腰の回復が遅れ、最後の対スペイン(0−0)に出場しただけだった。
 83年のインタビューでは「プロチームの監督になろうとは思わない」と言っていたが、選手引退から7年後に古巣のニューカッスルの監督となる。低迷していたチームをプレミアシップの強豪に仕上げ、マンチェスター・ユナイテッドと優勝を争うまでになり、ホームグラウンドのセントジェームズ・パークは大いに賑わった。97年のシーズン途中にこのチームを去ったキーガンは次の年にフルハムの監督(チーフ・オペレイティブ・オフィサーを兼ねる)となって2部から1部へ上げた。99年の5月にイングランド代表監督となったのは、こうした彼の能力をFAが必要としたのだろう。2000年の欧州選手権の1次リーグ敗退のあとも2002年を目指したが、そのワールドカップ予選での不運で10月に解任されてしまった。監督としても“世界”には縁が薄いのだろうか。
 気さくでユーモラスなキーガンには、もう一度会ってサッカー談義を聞かせて欲しいと思っている。


(週刊サッカーマガジン2005年6月21日号)

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