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第25回 八重樫茂生(1)12年間オリンピックの戦いを続けた銅メダルチームの精神的支柱

酷暑で頑張る日本代表の伝統は

 アウェーでのバーレーン戦(○1−0)、第三国の無観客試合となったバンコクでの北朝鮮戦(○2−0)に勝って、2006年ワールドカップ出場を決めた。
 日本代表とジーコ監督、そのスタッフの皆さん、まずはおめでとう。
 私のメモリーの中から取り出すサッカー人は、今回から八重樫茂生(やえがし・しげお)さんに入る予定だったが、この号は喜びついでに2つの勝ち試合についての一言――ということにしたい。
 もちろん、それもパーチョンこと八重樫選手に関わりのある話でもある。メルボルン(1956年)から東京(1960年)、メキシコ(1968年)と12年間にわたって、オリンピック代表という世界でも珍しい記録を持ち、メキシコ銅メダルチームの精神的支柱でもあったこの人の思い出の重要なパーツが、バンコクにあったからである。
 1966年12月に行なわれた第5回アジア大会。あのスパチャラサイ競技場がメーン会場であった大会で、日本は3位になったのだが、このとき、八重樫選手は第2戦の対イランで、相手のひどいファウルで足を痛め、あとの試合を欠場した。その彼を見舞いに行ったら、選手村のベッドでギプスをつけた足を天井から吊り下げたかごに載せたまま寝ていた。冷房はなく、汗をいっぱいかきながら、「ケガしたんだから、まあ仕方がない」――と笑う彼に、、あらためて神経のタフさと暑さに耐える強さを感嘆したものだ。
 今度のバーレーン戦の直前に相手チームのジドカ監督が、「マナマの蒸し暑さは、日本選手にも大敵になるはずだ」と語ったのを聞いて“シメた”というより気の毒な気がした。このドイツ人監督が、日本の大阪や東京の蒸し暑さや、そこで夏に小学生からJリーグまでの各年代、各階層のプレーヤーが公式試合や練習を行なっていることを知らず、日本代表の夏の強さに気づいていないと思ったからだ。
 あとから考えれば、バーレーン選手のコンディショニングが不十分で監督は“神頼み”ならぬ“暑さ頼み”の心境だったのかもしれないのだが……。


冬のスポーツを夏に――

 2002年のワールドカップ、2004年の中国でのアジアカップの日本の好成績は、もちろん、そのときのチームの技術と戦術、選手一人ひとりの戦う気迫、そしてチームの一体感が生み出したものだが、これらの大会が、夏の暑さ、それもヨーロッパ人から見れば酷暑の中での試合だったから、やはり日本代表は暑さに強いといってよいはずである。
 今度の3月シリーズと6月シリーズを比べると、バーレーンも北朝鮮も動きの量が明らかに落ちていた。日本選手にとっても決して楽な環境ではないが、彼らほど落差は大きくなかった。
 ヨーロッパから渡来し、彼らの流儀に沿って冬のスポーツという形にしていた時期から、夏に試合を行なうようになったのは高校選手権の前身、全国中学校蹴球選手権が昭和10年に会期を変えてからである。オリンピックのサッカーが夏だという単純な理由(欧州の夏は日本ほど暑くないのに)からだったが、それが戦後の高校総体にも踏襲され、大学の大会も持たれるようになり、Jリーグのスタートのときにも日本の観客に受け入れられやすい夏(ナイター)にも日程が組まれるようになった。スポーツを楽しむという点では、この激しい競技は夏に不適当ともいえるが、夏休みの関係もあって今ではスケジュールは定着した。それも暑さに強い代表の伏線になっていたと思う。


バーレーン戦のパーフェクト・ゴール

 ただし、そうはいっても、暑さの中でのプレーは楽なものではない。
 私はバーレーン戦で、左サイドのFKから、アレックスと福西のパス交換のあと右へ送り、田中−柳沢−中田英−中村−小笠原へとつないで、小笠原がシュートを決めたゴールに、久しぶりにパーフェクトなプレーの連続を見た。柳沢から中田英のパスの強度(ゆるいゴロ)、それをダイレクトで、しかも絶好の強さで送った中田英の技術、俊輔の意表を突くソール(足の裏)のパスは、82年のブラジル対イタリア戦で見たジーコのヒールによる切り返しの意外性とも匹敵していた。小笠原のボールの受け方と、自分の得意な角度にボールを置いた落ち着きはまことに見事で、相手の動きが鈍ってプレッシングが弱くなったといっても、あの状況の中で、それぞれが完璧なプレーを演じたところにこのチームの強さを見た。
 私自身、バンコクの暑さを経験しているだけに、8日の試合の選手たちの気力には頭が下がる思いだった。
 柳沢という、もともと形のきれいな選手が、イタリアの洗練を身につけ始めたのもうれしかったし、ニースケンス(オランダ)ばりのスライディングシュートも快感だった。
 大黒らしい2点目は、ひたむきにゴールを取ろうと狙っていた姿勢の表れ。
 そこに39年前のバンコクで、ケガと暑さにひたすら耐えて、メキシコを目指していた33歳のパーチョン以来の日本代表のDNAを見た気がした。


(週刊サッカーマガジン2005年7月5日号)

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