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第26回 八重樫茂生(2)努力を重ねながら報われぬ4年のあとに充実のときを若い仲間とともに迎える

蹴られっぱなしのメルボルン

 1956年のメルボルン・オリンピックは、せっかくアジア予選で韓国を抑えながら本大会では1回戦でオーストラリアに0−2で敗れてしまった(当時はグループリーグはなく、最初からノックアウト・システムだった)。フィジカルの強い相手の、ファウルを伴う激しい当たりにやられてしまった。
 八重樫はCF(センターフォワード)で、予選の韓国戦のような大きな動きはできなかった。当時の監督だった川本泰三氏は「相手を背にして後方からのボールを受ける彼を、相手のセンターバックが何度も蹴る。見ている方がつらいほどだった」と言っていた。その相手をかわす技術をまだ身につけていなかったこともあったが……。
 苦い思い出の残るメルボルンで強い刺激になったのは現地でのユーゴ代表との練習試合や、ソ連対ブルガリアの準決勝など、レベルの高い東欧勢のプレー。あらためて世界との差を知ったのだった。
 次の年、メルボルン組を主力とした日本代表は中国に向かう。10月から11月にかけて、北京、瀋陽、上海、広州と広大な中国を転戦し7試合を行なった。2勝1分け4敗、この遠征中にチームメートの名を中国語で呼んだことから、八重(パーチョン)のニックネームが生まれたのだが、そのパーチョンは上海での対紅旗体協隊との試合で、会心のシュートを決めて2−1で勝利した楽しい思い出を持っている。北口晃が右から送り込んできたグラウンダーをノートラップで左足アウトで決めたものだった。
 右利きだったが、左ウイングのポジションをしたこともあって、右も左も蹴れるようになっていた。
 サッカーを始めたころはドリブルで相手を抜くことが得意だった。練習を重ねてキックが上達し、シュートやパスの精度が上がって、大学でも日本代表でも八重樫茂生はボールを持つことができて、両足で蹴れること、そして“読める”ことで、攻撃の中心的な役割を担うことになる。


ローマ予選はケガで欠場

 ただし、中盤で抜いて出るプレーヤーは、そのころはあまりいない。相手側に警戒されるだけでなく、ファウル・タックルで痛めつけられることもある。体のあちこちにボルトが埋まっているといわれるのはそのためだった。
 メルボルンでの敗戦の次は、第3回アジア大会。1968年に東京で開催されたこの大会で不成績。さらにその2年後のローマ・オリンピック予選も、また韓国を超えられない。もっとも1959年12月の東京でのこの対韓国2試合には八重樫は出場していない。その年8月のムルデカ大会(マレーシア)の韓国戦で横から足を蹴られて、くるぶしを傷めていた。彼の23歳から27歳まで、選手年齢でいえば充実期にあるこの4年間はただひたすら努力しながら、なかなか先の見えない時代だった。同時にそれは日本代表のどん底時代でもあった。
“遍歴時代”に明るみを差したのは、60年夏のデットマール・クラマーとの出会いだった。「日本選手の機敏性を生かすためにはテクニックを高めること」を第一としたクラマーは、代表選手にあらためて、ボールを止める、蹴るの基礎技術の制度アップを図った。
 そうした中で、クラマーは攻撃の中心、チームの中心となる八重樫の成長に心を配った。彼はあるとき私に「キミの兄・太郎を代表に復帰させて欲しい。経験ある兄さんとともにプレーすることで八重樫の上達が早まると思う」と言ったことがある。
 代表の若返りを図るために経験あるプレーヤーを一気に外したため、技術の伝承が途絶えてしまったのではないかという彼の話に太郎は、会社の仕事の関係で代表に復帰できないと答えながら、クラマーのパーチョンにかける期待の深さをあらためて知った。


希望を胸に東京オリンピックへ

 1961年のデュイスブルクの日本代表の合宿練習中に、クラマーの要請でフリッツ・バルターが現れ、試合のメンバーに加わって得意のパスを披露した。1954年西ドイツ代表がワールドカップで優勝したときの主将であったバルターのパスに、八重樫は感銘を受けた。受け手へいかにもどうぞといわんばかりにボールを運んでくれる。現役を引退して(当時46歳)いるこの人のパスには日本でいうワビとかサビ、あるいはコクというようなものが詰まっているように見えた。「こういうパスを出せるプレーヤーにならなければならない」と思った。
 東京オリンピックに向かって日本代表の強化が進み始め、チームにはパーチョンたち30年代世代より若い40年代生まれ、いわゆるアジアユースを経験した世代が入ってきた。
 いい指導者に恵まれ、力のある後輩とともに充実した八重樫茂生は、64年東京オリンピックを迎えることになる。


(週刊サッカーマガジン2005年7月12日号)

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