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第27回 八重樫茂生(3)有能な後輩と切磋琢磨。絶妙のパスのタイミングを掴んだ12yearsオリンピアン

“東京”の成果は検見川の厳しさから

「八重樫さんのような厳しい先輩に恵まれたことが私の幸いの一つ――」
 釜本邦茂JFA副会長はスピーチのたびによくこう言う。
 千葉・検見川での日本代表合宿のシュート練習で、ゴール(ネット)から外れてゴール裏のがけ下へ落ちたボールを“自分で取って来い”と釜本に取りに行かせたエピソードもある。
「ミスがすべて悪いのではない。当然、入れなければいけないのを外したり、気が入っていなくてミスパスしたりしたときには、やかましく言ったのっです。釜本は素晴らしい能力を持っている。それを伸ばしてほしかっただけ」と“八重さん”は振り返る。
 27歳の年、60年5月には古河電工が企業チームとして初の天皇杯を獲得した。このチームの特色は、それまでの実業団(社会人)チームと違って、長沼健の元に集まった日本代表クラスが技術だけでなく、動きの量でもスピードでも随一だった。その中心が“八重さん”だった。
「クラマーさんに出会ったころは、体力的にはまだ自信があった。周囲も見えるようになってきた」とは本人の言葉だが、硬い感じのボールの受け方がきれいになったのをスタンドから発見したのもこのころである。“東京”を目指す代表チームには、アジアユースを経験した若い世代、八重さんより7〜10歳年少の仲間が加わってくる。
 自らのプレーを伸ばすとともに、若い選手の上達にも気を配る。64年の春から夏への検見川合宿はベテランも若手もそれぞれにとって、まさに火の出るような切磋琢磨の日々だった。


欧州のスター、ゲレタと互角に

 東京オリンピックの対アルゼンチンの逆転勝利。0−1からの同点ゴールは八重樫からのパスを杉山がドリブルシュートで決めたもの。1本のパスで杉山の得点能力を引き出したシンプルだが会心のプレーだった。このゴールをきっかけに日本は南米のサッカー大国からの1勝をもぎ取る。
 第2戦の対ガーナは、日本がリードしながら後半に動きが止まって2−3で敗れたが、2点目は八重樫の素晴らしいシュートが決まり、1点目も彼のシュートのリバウンドを杉山が決めたもの。
 D組2位となって、準々決勝に進み、ここで東欧の雄チェコスロバキアと戦う。日本の攻撃展開もチェコと対等で、同じように攻め合って、ミスの多い方が敗れる典型的な例として、日本の進歩とその限界を見た試合。クラマーは私に「今日の八重樫を見てくれたか。ヨーロッパの一流のリンクマンであるゲレタに対して、まったく見劣りしなかっただろう。欧州のスタート互角だよ」と――。
 メルボルンから東京まで8年間代表でプレーし、すでに30歳を超えた。アマチュア選手、企業チームのプレーヤーにとっては、会社の仕事に戻るか、トップクラスの選手を続けるか――の時期に来ていた。ぽつぽつやめたいと思ったが、健さん(長沼)やクラマーたちから続けるように請われ、メキシコを目指した。もう、あの東京の前のような、あふれるような気力は正直なところ湧き上ってきたかどうか――。
 そうした内面とは別に、杉山や釜本、小城得達、宮本輝紀たち次の世代の充実の中にあった“八重さん”のプレーには磨きがかかってきた。
 67年のアジア予選にも3試合に出て、あの日韓の劇的な3−3でも働いた。
 68年の日本サッカーリーグの、確か国立の試合(対三菱)のテレビで、私は彼が左サイドから見事なパスを送って木村武夫のゴールをお膳立てしたとき、パーチョンはとうとうここまで来たかと、芸術的なパスに感嘆した。


対ナイジェリアの2ゴールを生んで…

 メキシコの本番、重大な第1戦、対ナイジェリアで、八重樫のパスから先制ゴールが生まれる。左サイドへ飛び出した八重樫が杉山からパスを受けて、左足でクロスを送り、釜本がヘディングを決めたのだった。相手に1点を返された後のゴールも、八重樫のFKから杉山が走るのに合わせたスルーパスから、釜本へのゴロのパスがつながり、釜本のシュートで2−1となった。
 八重樫はこの後、足首を蹴られて桑原楽之と交代。この負傷のため、彼のオリンピックは1968年10月14日で終わった。4年前にアルゼンチンを破ったのと同じ日だった。
 FIFAニュース、1976年6月号に、オリンピック・サッカーの記録集が掲載されている。その中に最も長くオリンピック本番でプレー(12年)したプレーヤーとして7人の名を挙げ、そのひとりにYAEGASHI(JAPAN)と書き込まれている。
 多くのケガを抱えながら、世界でも稀な長いキャリアを持つオリンピアン八重樫だから、次の世代が受け継ぐものも多いはずである。


(週刊サッカーマガジン2005年7月19日号)

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