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第28回 テレ・サンターナ(1)80年代に“ブラジル”を復活させ選手ジーコをフルに生かしたセレソン監督

選手をかばう監督ジーコ

 ニュースとしては少し古いが、5月のキリンカップ(対ペルー=0−1、対UAE=0−1)の試合後の記者会見で、記者からの質問の中にその局面での日本選手(坪井慶介)のミスという言葉があったのに対してジーコは、どこにもパーフェクトな選手というものはいない、と言い、もしミスがあってもみんなでカバーをしてゆくのがサッカーだと言い、鋭く反発したことがあった。公式の記者会見の席上で、監督が自分のチームの選手のプレーを悪く言うことはないのが常識だが、そのときのジーコの強い口調に選手への愛情と配慮を見るとともに、彼のセレソン時代の監督、テレ・サンターナを懐かしく思い出したものだ。
 テレ・サンターナは第13回、14回のトヨタカップで2連勝したサンパウロの監督であり、日本にもなじみ深いが、彼が世界で名を上げたのは1982年のワールドカップでブラジル代表の監督を務め、魅力いっぱいの攻撃的チームを大会に送り込んできたとき。
 ペレ時代の栄光が70年大会で終わって、74年、78年とブラジル代表は弱くはなかったが「ブラジルらしさ」を失って世界のファンを失望させた時期があった。
 その不評を跳ね返すセレソンを82年スペイン大会に持ち込んだのがテレ・サンターナ監督――。優勝は逃したが、ジーコ、ソクラテス、ファルカン、トニーニョ・セレーゾのいわゆる黄金のカルテットの素晴らしいテクニックとパスワークは世界のファンに“ブラジル”サッカーの楽しさを再び味わわせたのだった。
 攻めなければサッカーじゃないという信念で、セレソンに“ブラジル”の本流を復活させたテレ・サンターナだが、幸いなことに私はその原型ともいうべきチームを1980年暮れから81年1月にかけての「コパ・デ・オロ(黄金のカップ)」――FIFA主催によるワールドカップ開催50周年記念大会――で見るチャンスがあったから、彼と彼のセレソンについては思い入れも強い。そして、そんな「メモリーズ」の中にあるテレ・サンターナの言葉や考え方が、監督・ジーコのそれに似ていること――。
 それぞれが“オレ流”とされるブラジル・サッカーにあって、監督の系譜、あるいはDNAの伝承があるのだろうか、とも思ってしまうのである。


選手時代はウイング・プレーヤー

 テレ・サンターナは1931年6月26日生まれ、日本の岡野俊一郎(JFA前会長)や平木隆三(メキシコ・オリンピック日本代表コーチ、第1回殿堂掲額者)さんたちと同年輩。ジーコ(1953年3月3日生まれ)よりは22歳先輩である。
 父親がブラジルのミナスジェライス州の小さな町、イタビリトのスポーツクラブの創設者で、もちろんテレは小さいうちからボールを蹴る。はじめセンターフォワードだったが、やがてフルミネンセに移って右ウイングとなる。スカウトしたのが1958年の代表、ジジを発見したことで知られるベネディット・ローサだったというから、選手としての素質も見込まれたのだろう。
 フルミネンセでサポーターにも評判が良かった。のちにバスコ・ダ・ガマやグアラニでもプレーし、ブラジル代表にも選ばれ3試合に出場している。そのうちの1試合がイングランド遠征でのウェスト・ハム戦。彼自身の話では、後方に引く形、つまり、のちに1958年のワールドカップでザガロが演じた(左サイドだが)のと同じ役割だったらしい。
 フルミネンセのサポーターの間で、それほどスキルフルではないが、スピードがあって、勇敢で、タフで、しかもインテリジェンスのあるプレーヤーといわれていたらしい。代表が3試合と少ないのは、名手ガリンシャが現れたからだという。


若い力を育ててタイトル奪取

 コーチ業に入るのは1965年、選手を辞めて、まずフルミネンセのU−15を見ることになり、4年後にはトップチームの監督となる。やがてアトレティコ・ミネイロに移って、ここで若いチームを育てて1970年にミナスジェライス州の選手権に優勝し、次の年にブラジル選手権にも優勝する。73年にサンパウロで、半年後再びアトレティコ・ミネイロで指揮を執る。ここで彼は自分がレイナウド、トニーニョ・セレーゾ、パオロ・イジドロ、ジョアン・レイチなどが立派になっているのを見て、自らの指導に自信を持つ。
 その後、ボタフォゴ、グレミオ、パルメイラスと一流チームを移り、それぞれに実績を残す。78年のコウチーニョ監督の「ヨーロッパ流を取り入れた」戦いぶりに嫌気のさしていたサポーターたちから、テレ・サンターナへの期待が高まったのは無理もない。1980年3月20日、彼は“王国”ブラジルの代表監督となる。
 70年ワールドカップを制したあのペレとカルロス・アウベルトたちのようなチームを作りたい。48歳のテレ・サンターナは考え、まず、ブラジルでは初めての若いB代表チームを選抜し、次いでAチームを編成することにした。78年のアルゼンチン大会でコウチーニョ監督の下で、十分に働けなかったジーコがA代表に指名されたのはいうまでもない。


(週刊サッカーマガジン2005年7月26日号)

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