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日本の8倍の国土に人口は3千万

アルゼンチンは未来の国と人は言う。北はフフイから南のフェゴ島まで、南緯22度50分から55度あたりまで、南北の長さ3650キロ、東西の幅は最大で1700キロ、南米大陸の南部の大半を占める国土は、日本の約8倍、そこに日本の人口の4分の1、約3000万人が住む。日本の近くを例にとれば、北は樺太の南半分から南は台湾まで、いわば旧日本領が陸続きで広がっている国がアルゼンチン。したがって、南へ下れば(日本の北海道のように)寒冷だが、サケが海から川を溯り、北の亜熱帯地域では、熱帯性の果物が栽培できる。中部のパンパと呼ばれる大平原地帯は水も十分で、農業、牧畜に適し、小麦と牛肉は世界への輸出国。西方のアンデス山麓では、石油や ウランなど地下資源が埋蔵。風景もまた、平野あり、大河あり、高峰あり、峡谷あり、サバンナあり、氷河ありで変化に富み、観光の面でも人をひきつけることができる。
神戸で育った私には、少年の頃から「アルゼンチン丸」などという船の名で、この国への関心をかきたてられた。戦前の大阪商船(現・商船三井)が昭和14年(1939年)に造った12700トンの当時の豪華船で、南米航路や世界一周航路についていた。同じ型に「ぶらじる丸」があり、流線型のスマートな船体が、汽笛を鳴らして港を出て行くのを校庭から眺めたものだ。この船の設計者・和辻春樹氏(故人)の長男和辻春夫氏は、神戸一中の5年先輩で、ドリブルの上手なミッドフィルダーだった。4年生(旧制中学だから5年まである)の時に全国大会で優勝し、岡山の第六高等学校へ進んで、旧制インターハイでも有名だった。
南米航路の起点だった神戸は「はるかな国」への移住者を送り出す基地でもあった。戦前はアルゼンチンよりも、ブラジルへの農業移住者が多く、船の便を待ち、あるいは検疫がすむまで一時的に滞在する「移民宿泊所」が、我が家のすぐ近くだった。移住者といえば、アルゼンチンは、まさに移住者の国だ。1516年、スペイン人のファン・ディアス・デ・ソリスの探検隊がラプラタ河一帯を探検し、それ以後、スペインの支配が始まる。植民地として搾取されるのに反抗して、アルゼンチンに住む人たちが立ちあがったのが1810年。
そして、1816年7月9日「ラプラタ合衆国」の独立を宣言しこれが現在のアルゼンチンの基礎となった。1860年頃から政情も安定し、鉄道を建設して農業を開発して移住者を受け入れるようになった。スペイン系、イタリア系の移住民と共に英国人たちもやって来た。主に鉄道の建設に関わる人たちだったが、ちょうど、英本国で盛んなフットボール(サッカー)をも持ち込んだのだった。
(サッカーダイジェスト1989年1月号より)

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