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国際舞台での初勝利からベルリンの逆転劇まで代表チームのリーダー 鈴木重義(上)

明るく闊達な大先輩

 今年、2007年は、日本サッカーがはじめて国際舞台に登場してから90周年にあたることは、この連載の5月号に記しました。その号では大正末期に“技術革命”をもたらした恩人、ビルマ(現・ミャンマー)人のチョー・ディンさん(故人)を紹介しました。
 今回はそのチョー・ディンの教えを受けて、日本サッカーの国際試合での初勝利に貢献した先駆者、鈴木重義(1902〜71年)のお話です。チョー・ディンに習い、早稲田のア式蹴球部の始祖となり、今から80年前の極東大会では初めてフィリピンから勝利を挙げた代表チームの主将を務めた後、さらに極東大会で初めて1位となった1930年(昭和5年)の日本代表監督、そしてさらに36年のベルリン・オリンピックの対スウェーデン逆転勝利を挙げた“奇跡”のチームの監督――半世紀以上前の日本サッカーの先頭に立ち続けた先達です。

 親しみと尊敬を込めて、後輩たちは鈴木さんを「ポンポンさん」と呼んだ。そのいきさつははっきりしないが、関西育ちの私にも、この人は忘れがたい印象がある。東京オリンピック(64年)の前の年だったか、大阪・桜橋の産経新聞にふらりとやってきた。そのころサンケイスポーツの編集長であり、早稲田のスポーツ仲間でもあった木村象雷(しょうらい/故人)を訪ねてのこと。
 木村さんに「キミも一緒に」と言われて、応接室でお目にかかった。編集長はポンポンさんより6歳下。だが、アムステルダム・オリンピック(28年)の水泳日本代表で、同盟通信(現・共同通信社、時事通信社)記者時代にベルリン大会の特派員でもあったから、共通の話題が多く、友人の消息からオリンピックの準備まで話が尽きることはなかった。私はそれを聞きながら、ベルリンの成功の伏線となる大正末期からの歴史をつくった一人、ポンポンさんの明るい口調に「この闊達さが、ベルリンの奇跡の一つの原因だったのだろうか」などと思ったものだ。
 サッカー史を彩った多くの先輩の名それぞれとともに、私には何か心象風景――たとえば野津謙(のづ・ゆずる)第4代日本サッカー協会(JFA)会長なら、クラマーを得意の良導絡で治療している――が伴うが、鈴木重義、ポンポンさんの“風の如く”現れ、快活にあっさりと語った姿は、今でも大切に焼きつられている。


高師付属中から早高へ

 小学校が豊島師範付属小学校――東京には青山師範、豊島師範と二つの師範学校がサッカーが強く、その付属小学校でもボールを蹴っていたから、鈴木さんは小学生の頃から“蹴球”になじんでいた。
 高等師範付属中学もまた早くから、高等師範(略称・高師)の影響で生徒たちはサッカーに親しんでいた。
 中学2年生のときに、第3回極東大会が東京で開催され、日本サッカーが初めて国際試合を経験し大差で敗れたが、それが大きな刺激となって、翌年に関東、関西、中京の各地区で蹴球大会が開かれるようになった。
 鈴木少年たちは第3回関東蹴球大会に初めて出場した。2回戦で青山師範に負けたが、この悔しさからさらにサッカーにのめりこむことになる。翌年、5年生のときも第4回大会に出場する。今度も2回戦で退いた。
 関東大会は2月の開催で、この頃まで練習や試合に打ち込んでいては、入学試験の準備がおろそかになる。1年浪人するつもりだったが、早稲田に高等学院(大学予科)が新設され、その試験が4月にある(旧制高校をはじめ、既存の大学予科は3月入試)と知らされ、猛勉強して受験すると合格した。
 早稲田大学にはまだサッカー部はなかったが、高等学院(略称・早高)で仲間を集めてボールを蹴り始める。グラウンドがなく、高師をはじめ、ほかの学校の校庭を借り歩き、秋にはこの年からスタートした全国優勝大会(現・天皇杯)の東部地区予選に出場する。
 その頃、東京・蔵前の東京高等工業学校(現・東京工業大)に4人のビルマ人留学生がいて、その一人がチョー・ディンだった。チョー・ディンは走り高跳びの選手でもあり、早稲田の競争部の走り高跳びの平井武選手と知り合い、練習にやってきたとき、鈴木さんたちがサッカーをしているのを見た。自らサッカープレーヤーでもあったチョー・ディンが、彼らの技術の拙いのに驚いて、教えようと言い出した。
 まず2日間、模範を示し、説明し、基礎技術を反復させた。それまで理論的にキックやトラッピングなどについて教えられたことのなかった鈴木さんたちにとって、チョー・ディンの指導は新しい発見であり、それから何回かコーチを受けて、チョー・ディンが驚くほど上達した。
 ちょうど東京帝大(現・東京大)の学生だった野津さんが東大を強くし、また全国にサッカーを普及させるためにと、全国高等学校(旧制)ア式蹴球大会(インターハイ)を計画し、1923年(大正12年)1月に第1回大会を東京高師グラウンドで開催することにした。


インターハイ参加とチョー・ディン効果

 本来なら、官立の高校だけの大会だが、鈴木さんは早高も是非入れてくれと強硬に申し入れる。大学生の野津さんより3歳年少の鈴木さんだが、すでに早高を代表して、大学専門学校リーグの結成などについて会合を重ねていた間柄であり、また、全国優勝大会の開催にもJFAの手伝いをしていたから、その頼みを断るわけにもいかず、第1回インターハイに早高も参加することになる。
 そして、いわば門外漢であるべき早高が優勝してしまった。
 この優勝がコーチ、チョー・ディンのおかげという声が伝わり、各校は彼の指導を受けたいと願った。
 チョー・ディンもまた、日本の学生たちの熱心さと自分のコーチの成果に喜び、『HOW TO PLAY ASSOCIATION FOOTBALL』というテキストを製作して、前記の平井選手たちの協力で翻訳も完成した。このテキストができた直後の9月1日に関東大震災が起こり、東京高等工業学校の校舎が倒壊、授業ができなくなってしまった。
 こんな条件が重なって、チョー・ディンの全国コーチ行脚が始まった。


1927年、対フィリピン戦

 早高を卒業して早大に進み、大学のア式蹴球部をつくる。スポーツに長い伝統をもつ“稲門”の中でもサッカーは国際選手を生み出したことで知られるが、鈴木さんはその早大のサッカーの伝統を切り開き、第1回の東京コレッジリーグ(現・関東大学リーグ)優勝を勝ち取る。
 中学2年のときにマスゲームに出場した第3回極東大会、そして自らの目で確かめた日本の大敗は心に刻み込まれていた。
 早大を率いて極東大会の代表を目指した鈴木さんは、1927年(昭和2年)の第8回極東大会の国内予選で早大WMW(WASEDA MAROON AND WHITE)のメンバーとして優勝した。
 卒業してOBとなった自分たちを含めたチームの名をチームカラーのMROON(えび茶)とWHITE(白)の頭文字にしてWMWとしたこのクラブは、この後も名を残すことになるが、鈴木さんの心の広さはチームの実力を考え、早稲田一辺倒ではなく、他の学校の選手を加えて補強したところにある。東大の竹腰、法政の西川潤之(GK)、水戸高から春山泰雄、近藤台五郎の4人だが、竹腰を除く3人がすべて高師付属中の出身であるところが鈴木さんらしい。気心の知れた後輩というだけでなく、チョー・ディンの影響を強く受けたショートパスをつなぐサッカーの高師付中の考え方は、WMWとも通じるところがあり、竹腰もまたチョー・ディンの直弟子でもある。
 上海での第8回極東大会で中華民国に敗れたが、第2戦でフィリピンに2−1で勝ち、初の国際舞台での勝利を記録した。
 0−1からのPKで同点にしたのは鈴木さん、勝ち越しゴールは竹腰だった。対中華民国(1−5)での唯一のゴールは玉井、これもチョー・ディンの弟子だった。


鈴木重義(すずき・しげよし)略歴 ※1925年以降は次号掲載

1902年(明治35年)10月26日生まれ。
1916年(大正5年)3月、豊島師範付属小学校卒業。
            4月、東京高等師範(略称・高師)付属中学校(旧制)に入学。小学生の頃からボールを蹴ることを覚えた。
1920年(大正9年)2月、第3回関東蹴球大会に高師付属中が参加、1回戦で暁星中(3−0)に勝ち、2回戦で青山師範を2−2、CK数によって敗退した。FWだった4年生の鈴木は強豪・青山師範から2ゴールを奪った。
1921年(大正10年)第4回関東蹴球大会・1回戦で独協中を6−0で破り、2回戦で埼玉師範と1−1、CK数は同じ、GK数によって敗退した。
           3月、高師付属中学卒業。
           4月、早稲田高等学院(略称・早高)に入学、中学でのサッカー経験者の新人たちとともに練習を始める。
           9月、大日本蹴球協会(現・日本サッカー協会=JFA)が設立、早高も加盟チームに。
           10月、第1回全国優勝大会(現・天皇杯)東部予選に出場、準決勝で敗退。
1922年(大正11年)10月、高師グラウンドで第2回全国優勝大会東部予選開催、早高は2回戦で敗退。ビルマ(現・ミャンマー)人のチョー・ディンを早大競争部の平井武選手が紹介、同氏によって早高の急速なレベルアップが進む。
1923年(大正12年)1月、東京帝国大(現・東京大)主催の第1回全国高等学校(旧制)ア式蹴球大会(高師グラウンド)に出場、参加8校、早高が優勝した。
            4月、早高を卒業し、大学へ。早稲田大学ア式蹴球部の設立を図る。
1924年(大正13年)1月、高師グラウンドで開催された第2回全国高等学校蹴球大会で、早高は2回目の優勝。
            1月24日、第1回早慶サッカーで早大が2−0で勝つ。
            2月、東京コレッジリーグ(現・関東大学リーグ)が結成され、大正13年度リーグを翌年1〜2月に開催することや、リーグ戦規約を決めた。
            9月、大学幹事会で認められ、実質的に体育会内のア式蹴球部としての活動が始まる(正式承認は翌年)、新しく早大・関学定期戦が発足。


★極東大会・日本の記録

第3回大会(1917年)東京・芝浦
 ●0−5 中華民国
 ●2−15 フィリピン

第5回大会(1921年)中華民国・上海
 ●1−3 フィリピン
 ●0−4 中華民国

第6回大会(1923年)大阪
 ●1−2 フィリピン
 ●1−5 中華民国

第7回大会(1925年)フィリピン・マニラ
 ●0−4 フィリピン
 ●0−2 中華民国

第8回大会(1927年)中華民国・上海
 ●1−5 中華民国
 ○2−1 フィリピン

第9回大会(1930年)東京・神宮
 ○7−2 フィリピン
 △3−3 中華民国

第10回大会(1934年)フィリピン・マニラ
 ●1−7 蘭領インド
 ○4−3 フィリピン
 ●3−4 中華民国


(月刊グラン2007年8月号 No.161)

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