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1927年の1勝を1936年のベルリンへつないだ卓越したリーダー 鈴木重義(中)

組織力への自信

 1917年(大正6年)、今から90年前に初めて第3回極東大会に出場した日本サッカーは、その10年後の1927年(昭和2年)に、負けてばかりのこの大会で初めて勝利をつかんだ。
 国際舞台での最初の1勝を記録したこの日本代表の主将が鈴木重義さん(1902〜71年)です。
 試合の模様を振り返ると、8月27日に上海市のフランス租界にあったパイオニア運動場で行なわれ、午後5時10分から日本対中華民国戦。前半に相手に3点を奪われた後、44分に玉井操のシュートで1−3とした。後半も攻めの回数は多かったが、ゴールを奪えず、2点を加えられて1−5で敗れている。中華民国チームについての感想は鈴木主将自身が大日本蹴球協会(現・日本サッカー協会=JFA)の会報(『サッカー・コラム』参照)で述べている。点差は開いたが、コンビネーションに磨きをかければ勝つ道はあると見たようだ。このあたりに、チョー・ディンに基礎技術を習い、またチョー・ディン自身が信奉していたスコットランド流のショートパスを身につけ始めていた早稲田大の学生とOB、それに東京の高師付属中OBの補強3人、さらには直弟子の竹腰重丸(1906〜80年)たちで構成したチームらしい組織プレーに対する傾向が見える。
 フィリピン戦は8月29日、やはり午後5時10分から行なわれた。前半からよく攻めたが得点できず、カウンターで1点を失った。後半も攻勢に出て、フィリピン側に疲れが見え、ハンドがあってPK。鈴木が決めて1−1。相手のゴールキーパーに読ませないために、ジグザグのコースでアプローチして蹴ったという。勢いづいた日本は、竹腰のシュートで2点目を加えて勝った。
 田辺五兵衛さん(1908〜72年、元JFA副会長。月刊グラン2000年8〜10月号参照)が書き残した「サッカー川柳」の“右、左、ふらふらとペナルティキック”の句は、このときのPKの状況を聞いての作という。


長期遠征で若手育成

 ちなみに1927年(昭和2年)の極東大会のメンバーは以下のとおり。
 WMW(WASEDA MAROON AND WHITE)…鈴木重義(早大OB、FB)有馬暎夫(同OB、HB)玉井操(早大3年、FW)朝倉保(同、FW)鈴木義弘(同、FW)杉村(野村)正二郎(早大2年、HB)横村(轡田)三男(早大1年、FW)高橋茂(同、FW)伊藤聖(同、FW)杉村正三郎(同、HB)高師康夫(同、HB)滝通世(同、HB)本田長康(早高2年、HB、GK)梶田実(同、HB)松沢慶一郎(同、HB)井戸多米夫(早高1年、FB)

 補強選手…竹腰重丸(東大、HB)西川潤之(法大、GK)春山泰雄(水戸高、FW)近藤台五郎(同、FB)

 大会の後、WMWは満州(現・中国東北部)と朝鮮半島への遠征に向かい、9月4日に上海を出発して、大連を経て、満州の都市を巡り、平壌、京城(現・ソウル)でそれぞれ試合をして、9月21日に東京に戻った。
 朝鮮地方は当時は日本領で、サッカーの強チームも多かったから、WMWが他流試合を望んだのは不思議ではない。平壌で1勝1分け、京城では延喜専門学校に0−4で敗れ、朝鮮蹴球団には3−1で勝っている。
 当時の大学のクラブにとっては、多額の費用がかかる“大事業”だったはずだが、鈴木さんは野球部に頼み込んで借金をし、経費を捻出したという。創部に自らが関わった早大ア式蹴球部にとっての大きな布石と見たのだろう。この遠征メンバーの早高の若手2人が、3年後の第9回極東大会の日本代表、東大を主力としたメンバーに入ったことが、鈴木さんの先を読む力、選手を選ぶ目の確かさを物語っている。


開花したショートパス

 1930年(昭和5年)の第9回極東大会については、この連載でも何回か触れた。「このくにとサッカー」を語る上での画期的事件の一つだった。
 この頃になると、日本国内でも関東、関西、それぞれの大学リーグで強チームがつくられていた。中でも東大は竹腰重丸をリーダーに関東大学リーグでの連覇を続け、日本一の実力を持っていた。
 JFAは東西の大学の優秀選手を選抜して選考会を行ない、代表19選手を決定した。
 監督は鈴木重義、竹腰重丸が主将であり、コーチだった。東大の選手が主力となったのは、組織力を生かすという実際的な考えからだった。
 自国での開催、しかも会場は明治神宮競技場(現・国立競技場)――出ると負けだった日本サッカーのレベルアップで優勝の期待がかけられ、選手たちには強いプレッシャーになったはずだ。しかし、チョー・ディンによって啓発され、選手たちの工夫によって積み上げられた組織力のサッカー、日本人の機敏さを生かす短いパスをつないでの攻撃、手島志郎という優れたストライカーを持つ東大のFW陣による攻撃力には自信を持っていた。
 日本は第1戦のフィリピン戦に7−2で勝ち、中華民国との対戦では3−3の引き分けとなった。相手のCF、戴麟経をはじめとする個人力を生かす中華民国と、連係プレーの巧みな日本との試合は、異なるスタイルとしかも激しいシーソーゲームで、明治神宮競技場を埋めた観衆を最後まで引きつけた。
 チョー・ディンの指導以来、10年そこそこで東アジアの実力者と肩を並べるまでになった日本だが、少なくとも日本代表が実力を出し切る試合ができたのは、鈴木、竹腰という2人のリーダーの適切な準備によるといえるだろう。
 自分にも人にも厳しい竹腰と、闊達な鈴木のペアは6年後の1936年のベルリン・オリンピックでも奇跡的な勝利へ日本代表を導くことになる。


鈴木重義(すずき・しげよし)略歴 ※1924年以前は前号掲載

1925年(大正14年)1〜2月、第1回東京コレッジリーグ開催、1部6校、2部6校がそれぞれリーグ形式(1回戦制)で優勝を争い、早大が1部で優勝(4勝1敗)。2位帝大(3勝1分け1敗)3位法政(2勝1分け2敗)4位高師(2勝1分け2敗)5位慶應(3分け2敗)6位農大(1勝4敗)の順。農大は2部優勝の明大と入れ替わった(3、4位は得失点差による)。
           5月、第7回極東大会の日本代表決定戦に早大は関東代表で出場、関西代表の大阪クラブに敗れた。
           11〜12月、第2回東京コレッジリーグで早大は2位(優勝は高師)。
1926年(大正15年)3月、早大を卒業。同大ア式蹴球部の最初の卒業生。このOBを加えたチーム、WMW(WASEDA MAROON AND WHITE=早稲田、えび茶と白=えび茶色と白色は早大のチームカラー)が誕生。
1927年(昭和2年)6月、第8回極東大会、日本代表決定戦でWMWは関東代表となり、7月の全国大会予選会に優勝して代表権を獲得。
           8月、中華民国の上海市での極東大会に出場。第1戦は中華民国に1−5で敗れたが、第2戦の対フィリピンは2−1で勝ち、国際舞台での初勝利をつかんだ。大会後、WMWは9月4日から21日まで満州国と朝鮮半島へ遠征した。
1928年(昭和3年)7月、野津謙と共著『ア式蹴球』(発行・アルス)を出版。
1929年(昭和4年)JFA常務理事に(31年まで)。
1930年(昭和5年)5月、東京の明治神宮競技場で行なわれた第9回極東大会の日本代表監督となる。日本はフィリピンに7−2で勝ち、中華民国とは3−3で引き分け、1勝1分けで中華民国とともに1位となった。
1931年(昭和6年)JFA主事(理事長)に(38年まで)。体育協会理事に(33年まで)。
1933年(昭和8年)体育協会専務理事に(35年まで)。
1936年(昭和11年)6月、ベルリン・オリンピック日本代表監督に。大会の1回戦で3−2とスウェーデンに大逆転劇、2回戦はイタリアに0−8で敗れる。日本代表は早大主力でオリンピックでの初勝利をもぎ取った。鈴木重義は27年は選手で、36年は監督で勝利を手にした。
1971年(昭和46年)12月20日、没。大学卒業後は同和火災に勤務、共栄火災取締役などを務めた。


★SOCCER COLUMN

第8回極東大会雑感『連係プレーで中華民国にも勝とう』
 1928年(昭和3年)度の大日本蹴球協会(現・日本サッカー協会)会報に鈴木重義さんが極東大会の記録を執筆して、第3回大会に出場して以来の成績を紹介しているが、第8回大会雑感と題して、強い中華民国のサッカーの背景とそれに勝とうという強い意欲を述べている。

「中華民国の国民は何よりフットボールを好む。この大会でも最も多く入場者を集めたのが蹴球だ。グラウンドには、見物人が場内に乱入する例年の例より、高さ一間余の柵(金網)をめぐらし、これを防ごうとした。最終戦の中華民国対フィリピンで紛争があったとき、この金網も一部破られてしまったが、全体的にはこのおかげで場内はよく整備されていた。
 今回出場したのは香港のチームで、前のマニラ大会に出場したもの6人、また第6回大会に出たものも数人あり。CF(センターフォワード)は第5回大会に出場している古強者である。このチームは5月から7月にかけて豪州の各地に転戦22回に及び、技を磨いたという。足技が巧みで、両ウイング、左インサイドは、ランニングも早くドリブルがよく、こちらは苦しめられた。
 しかし、コンビネーションはそれほどではない。今回は5−1で敗れたが、日本選手が若く「あがり気味」だったのが、差を大きくした。第9回大会には洗練されたコンビネーションを持ってすれば、必ず勝てると信ずる。
 極東大会に参加してから5回目の今大会で、数年の臥薪嘗胆が報いられて比軍を破り、第2位を得たことはわが蹴球史上一大エポックであり、またわれわれが第2位を得たことで天皇杯獲得に力があったことは同慶に堪えない。
 昭和5年の第9回大会は両チームを倒して世界の舞台に乗出すべく、一途に驀進しようではないか」


(月刊グラン2007年9月号 No.162)

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