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厳しいコーチをバックアップし代表チームに栄冠を呼んだ監督 鈴木重義(下)

 9月10日は日本サッカー協会(JFA)の創立記念日。その大切な日のJFAの行事の一つに「日本サッカー殿堂」の掲額式典がある。サッカーの発展に大きく貢献した人たちをたたえ、顕彰するこのセレモニーは、今度で4回目。新たな掲額者は、東京(1964年)メキシコ(68年)両オリンピックで活躍した片山洋、鎌田光夫、山口芳忠と、2人の先達、鈴木重義、チョー・ディンの合計5人である。
 チョー・ディンについては『このくにとサッカー』(2007年5月号)に掲載し、鈴木さんについては、ただいま連載中――今度が3回目となる。


昭和4年のJFA改革

 1927年(昭和2年)、いまから80年前に国際試合での初勝利を手にした日本代表、早大WMWを中心にしたチームの主将を務めた鈴木重義さんにとっては、サッカーの次の仕事が待っていた。
 JFAの改革だった。明治の体操伝習所で坪井玄道さんが教科にサッカーを取り入れて以来、その流れを受けて、日本のサッカー界では東京高等師範学校(高師)が先進的な役割を果たしてきた。サッカーだけでなく、スポーツ全般にわたって(野球は別にして)その傾向が強かった。
 JFAの創立にも高師の校長である嘉納治五郎や、校長の指示を受けた内野台嶺教授たちの力が大きかった。協会の役員たちに、高師や師範学校系が多いのも当然だった。
 極東大会でフィリピンや中華民国といった外国との付き合いがはじまり、いよいよオリンピックといった世界に目を向けるためには、JFAの役員構成を考えるべきとの声も高まった。
 そうした改革派の中心に鈴木重義さんがいた。ご本人自身、豊島師範付属小学校、高師付属中学の出身で、これまでの高師系の人たちの功績も十分承知していたが、改革のチャンスと見た。
 29年に選ばれた新しい役員は会長の今村次吉(留任)の下に、常務理事(いまの理事長にあたる)に鈴木重義、理事が吉川準治郎、野津謙、山田午郎、千野正人、井染道夫、中島道雄、竹腰重丸となり、在京メンバーは東大、早大、明大、東農大といった大学の卒業生が多くなった。
 多くの組織では、こういう人事の入替えは時代の流れから見て必要なものだが、さて、実行するとなると、これまで尽くしてくれた先輩たちに交代を持ちかけるのは、なかなかのことだろう。
 鈴木さんは、これを持ち前の闊達さで乗り越えた。
「日本サッカーもFIFA(国際サッカー連盟)に加盟する時期になった。世界的に伸びてゆくためにも、協会の組織を変えたいという者が多くなった。大改造するか、そうでなければつぶしてしまおう――という声があって、昭和4年の改選期には、きちんとした投票をしようということになった。それで、かつては3人ぐらいだった大学出身の理事の数が一気に増えた」
 鈴木さんはJFAの機関誌にも、後にこう語っている。
 30年の第9回極東大会は新しいJFAにとっても、重大な国際試合だった。
 JFAが初めて東西の大学から選手を集め、選考を兼ねた合宿練習の後に代表を決めるという新しい試みも、新体制の下だった。
 竹腰重丸をコーチ兼キャプテンとするこのチームは、この連載でもすでに述べているとおり、中華民国とともに極東のトップに立った。この成功は監督・鈴木重義、コーチ・竹腰重丸という組み合わせによるものとも言えた。
 竹腰重丸、通称ノコさんは、サッカーの技術のことになると目の色が変わる。自分にも厳しいが人にも厳しい。そういう生真面目で妥協を許さないノコさんを、鈴木さんが後ろで支えた。


ベルリンは竹腰、工藤両コーチ

 極東で1位となれば世界――。いまなら世界といえばワールドカップだが、当時はまずオリンピックだった。
 残念ながら、1932年(昭和7年)のロサンゼルス大会ではサッカーは行なわれなかったから、目標はその次のベルリン大会となった。
 ただし、その前に34年の第10回極東大会がマニラで開催される。JFAは東アジアのトップを守るため、再び、東西の優秀選手を集めて選考試合を行ない、代表を編成した。メンバーはまことに豪華だったが、この大会では成績を挙げることができなかった。
 一言で言えばチームワークが悪かったのだが、今から思えば、監督に予定されていた鈴木重義さんの都合が悪くマニラに行けなかったこと、コーチの竹腰重丸が体育協会の役員として、満州国の極東大会への加盟といった政治問題(中華民国が当然、反対した)に関わっていて、チームの面倒を見きれなかったという伏線もあった。
 おそらく鈴木重義さんは、自分がその場にいたなら――と感じただろう。
 そうした反省の上に立って、ベルリン・オリンピックには鈴木重義監督、竹腰重丸コーチが再現した。もう一人、工藤孝一コーチも加わった。
 工藤孝一(1909〜71年)さんは、鈴木さんより少し若く、33年に早大を卒業し、サッカー部の監督をしていた。在学中から選手よりもコーチの仕事をしていたほどで、細かい選手への気配りと、厳しい練習で知られていた。
 今度のメンバーに早大が多いというより、早大が主力ともいう顔ぶれだったから、工藤コーチの就任は当然ともいえるが、鈴木さんは実務にも強い工藤さんとノコさんの組み合わせも考えていたに違いない。
 長いシベリア鉄道での旅の後、ベルリンでは試合までのコンディション調整、練習試合の相手との交渉など、初めてのヨーロッパでさまざまな仕事があったが、それをこなして、試合当日にチームをベストの状態にもっていくのは一苦労だっただろう。
 ベルリンの奇跡を演じるまでの日々の詳細は、今も協会会報に載った工藤コーチの報告書に詳しい。


0−2でも「いけるヨ」と監督が言った

 ベルリン・オリンピック(1936年)での第1戦、対スウェーデン戦での逆転勝利は、何度繰り返し読んでも私には楽しいが、すでにこの連載では何度も登場しているので、ここでは触れない。ただ、前半0−2で、ハーフタイムに控え室に帰ってきた選手たちに対して鈴木監督は「今日は調子がいいぞ。後半はいけるヨ」と言った話は伝えておきたい。
 圧倒的な相手の攻撃に2ゴールを奪われはしたが、何回か日本側のパス攻撃がいい形をつくったこともあるのだろうが、0−2だから当然、選手は気落ちしていた。それを「いける」と言われて「うん、そうだな」と希望を取り戻したと、FB堀江忠男選手は語っている。
 チョー・ディンに出会い、早大のサッカー部を立ち上げ、日本の国際試合初勝利を選手として演じた鈴木さんは、初の極東1位の監督となった。そして、今度はオリンピックでの初勝利の監督ともなった。
 自ら改革に関わったJFAにとって、創立15周年の快挙でもあった。
 大戦中、福島に疎開していた鈴木さんは、戦後は協会とは離れていた。早大では創業の主ではあったが、もっぱら早稲田一筋の工藤さんに任せていた。
 その工藤さんが1971年(昭和46年)に亡くなったとき、東伏見のサッカーグラウンドに棺を運び、学生、OBが集まって心のこもったア式蹴球部葬をした。葬儀委員長は鈴木さんだった。


★SOCCER COLUMN

野津、鈴木共著の80年前の入門書
 鈴木重義さんは1928年(昭和3年)に野津謙さんと共著で『ア式蹴球』をアルス運動叢書の一つとして出版している。
 184ページのうち、「ア式蹴球一般」(66ページ)を野津さん、「ア式蹴球実技」(117ページ)を鈴木さんが分担。
 実技の部は第1章キック、第2章ボールのストップ、第3章ドリブリング、第4章タックリング、第5章ヘディング、第6章ゴールキーパー、第7章フルバック、第8章ハーフバック、第9章フォワードと前半は基礎技術について、後半はポジションプレーについて述べている。
 チョー・ディンの『How To Play Association Football』はもちろんのこと、外国の指導書もずいぶん読んでみた上に、自分たちの経験から割り出したもの。
 28年といえば、上海での極東大会に出場した次の年。日程の上では大変だったはずだが、日本サッカーをリードし、アジアでも追いつこうとしているという自負が、この本からも感じ取れる。


78年前は302チーム

 JFAが1929年(昭和4年)に“改造”したときに、協会に加盟していたチーム数は全国で302。今に比べれば少なく感じる人もあるだろうが、その頃とすれば、「サッカーも盛んになった」と言える数字でもあった。
 内訳は関東支部97、東北支部21、北海道支部9、北陸支部6、名古屋支部27、京阪支部51、兵庫支部27、中国(四国)支部37、九州支部25、朝鮮支部2となっている。
 なお、当時の名古屋支部のチームは次のとおり。
 名古屋蹴球団、芳野倶楽部、コメット倶楽部、瑞穂倶楽部、浜松高等工業学校、第八高等学校、名古屋高等工業学校、名古屋高等商業学校、静岡高等学校、静岡師範学校、愛知県第一師範学校、刈谷中学校、明倫中学校、岐阜中学校、津島中学校、静岡中学校、浜松師範学校、東邦商業学校、熱田中学校、愛知商業学校、武義中学校、本巣中学校、志太中学校、韮山中学校、上野中学校、八日市中学校、大垣中学校。
 JFAが誕生した21年は加盟(会費納入チーム)はほとんど関東だけで20チームばかりだった。多くは中学校だったが、大学チームが増加し、関東大学リーグは1〜3部まで、関西学生リーグも1、2部制を取っていた。


(月刊グラン2007年10月号 No.163)

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