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第3回アジア大会決勝で主審を務め、日本レフェリーの国際舞台への第一歩を記した 村形繁明

 昨年のワールドカップ・ドイツ大会で、日本代表チームは1勝も挙げずにグループリーグで退いた。選手たちにも私たちにも辛いことだったが、同じワールドカップのピッチ上で、日本から送り込まれた主審の上川徹、副審の廣嶋禎数の両審判が高い評価を受け、3位決定戦にも主審、副審として立派なレフェリングを見せたのは、まことに嬉しいことだった。戦ったドイツとポルトガルの両チームが、いい審判の下で試合ができてよかったと語ったのを知って、心が晴れやかになったのを覚えている。
 日本のサッカーのここしばらくの実力アップとともに、審判の育成、技術、体力の向上なども目覚しいものがあるが、いまのJFA(日本サッカー協会)の審判部の充実ぶり、レベルの向上を見るたびに、私は50年前の第3回アジア大会(東京)の決勝で笛を吹いた村形繁明さんを思い出す。
 日本のサッカーが、戦後の復興期から東京オリンピックを目指して、選手のレベルアップだけでなく競技運営力の強化を図った時期に、1958年(昭和33年)6月1日の試合で村形さんが見せた見事な審判ぶりは、その後への重要な布石となったと私は考えている。


悪質ファウルに毅然として“退場”

 1958年(昭和33年)6月1日、第3回アジア大会は最終日を迎え、午後3時から国立競技場で中国(台湾)対韓国の決勝が行なわれた。
 日本代表は残念ながら1次リーグで敗退していた。台湾は香港在住の選手を主に中国の名でプレーし、1次リーグA組を首位で突破した後、準々決勝で強豪・イスラエルを倒し(2−0)、準決勝でインドネシアを1−0で破って決勝に進み、韓国も1次リーグD組を突破して準々決勝でベトナムを3−1、準決勝で第1回大会のチャンピオン・インドを3−1で退けて最終の舞台へ上がってきた。両者は4年前のマニラ大会でも優勝を争い、台湾が勝っていた。いわば因縁の対決。当然、激しいプレーが予想されていた。
 試合をコントロールするのは開催国・日本の国際審判、村形繁明レフェリー。副審(当時は線審と呼んでいた)は横山陽三、有馬洪だった。
 村形さんはすでにこの大会で、1次リーグのイスラエル対イラン(5月25日)で笛を吹き、準々決勝のインドネシア対フィリピン(5月30日)でも主審を務めていた。イスラエル対イランは両国の対立意識からとても激しい場面が多かったはず。自身の感想も「自分でも恥ずかしいと思う始末で、汗顔の至り」。サー・スタンレー・ラウスから「主審の動きが足りない」と注意されたという。
 51年から国際審判として登録されていて、国内の試合では大学リーグや天皇杯などで笛を吹いているが、国際試合はフレンドリー・マッチはともかく、こうしたタイトルのかかった真剣勝負は初めてだった。しかし、最初にこうした経験を積んだおかげで、2試合目は自分でもまずまず――そして、任されたのが決勝だった。

「えらい試合を割り当てられたと思ったが、線審として私を助けてくれるのは日頃から気心の知れた仲間、横山、有馬の両氏で、自分の癖は良く知ってくれているからベストを尽くすだけだと考えた。
 試合が始まり、案外、おとなしいと思ったのはわずかのこと。反則すれすれの激しいプレーで展開され始め、両者フリーキックの応酬。43分に韓国側が激しい反則を犯した。
 その1分後、韓国選手が胸でトラップしようとしたとき、台湾(中国)の選手が側腹を蹴り上げた。逡巡は許されない。退場を命じた。前半は韓国が1−0で終わる。
 後半は別のチームのようにおとなしい。10人になったはずの台湾がボールをキープし劣勢に見えない。おかしいなと人数を数えるとやはり10人だった。台湾が1点を返して同点。韓国のトリッピングでPKがあったが、台湾は失敗。終了近く、韓国側に明らかなハンドがあって、このPKは台湾が決めた。これで終わりと思ったら、韓国が同点ゴール。2−2で延長へ。そして延長後半に、台湾が左からのクロスに右サイドが飛び込んで3点目。これが決勝ゴールとなった。
 タイムアップの笛を吹き、勝者、敗者の劇的な光景を見ながら、まあまあ無事に終わったと、両線審の協力に感謝の念がいっぱいになった。控え室に戻ると足の痛みが激しくなった。前日に捻挫したので痛み止めの注射を打っていたが、麻酔が切れたらしい。
 腰をかけて、やれやれ済んだと思った」

 村形さんのこの話は、大谷四郎、岩谷俊夫(ともに故人)と私とでその頃編集していた『キックオフ』(大阪サッカークラブ会報誌)に寄稿してもらったもの。
 日本のレフェリーで、アジア大会決勝の笛を拭くという初めての仕事を成功させた気持ちが、よく表れている。


早稲田でGK、そして主務からレフェリー

 村形さんは江戸っ子で、東京府立八中(旧制)でサッカーを覚え、1931年(昭和6年)に早稲田高等学院へ進み、ア式蹴球武へ。同期に八中からの仲間、高島(鈴木)保男とシュートの名人、川本泰三がいて、黄金期を迎える。
 ポジションはGK。3年上に熊井俊一、1年後輩に佐野理平がいた。旧制インターハイや関東大学リーグに出場したが、後輩・佐野の急速な成長に控えに回ることになる。
 上級生になったある日、川本泰三から「選手をやめて、マネジャーをやってくれ」と言われて転向する。
 チームの構成と同じように、人の適材適所を考えるのが得意な川本さんは、村形さんの人柄をよく知ってのことだったろう。
 早大を卒業後、もちろんプレーも続けはしたが、レフェリーの勉強にも目を向けた。36年の“ベルリンの奇跡”を成し遂げた早大の仲間たちも、来るべき40年の東京オリンピック(幻となったが……)への準備のためにも、優秀なレフェリー養成を急がなければならぬという課題を持ち帰っていた。
 そのオリンピックは“非常時局”のために消え、大戦の終結の後に、日本スポーツ界が目指したのは、オリンピックの招致と、その前の第3回アジア大会だった。公式の大会開催のために、レフェリー部門の強化を図ったJFAは、松丸貞一審判委員長の下に、村形繁明、横山陽三、有馬洪、二宮運次、福島玄一、早川純生、岡村竜次たちを審判委員に、関東、関西をはじめ各地域協会レベル、各都道府県レベルの審判登録を行なうとともに、研修会を開いてレベルアップを心がけた。
 それまでレフェリーといえば、学生時代に選手であった人たちが笛を吹いていた。私が旧制中学の選手であったとき、明治神宮大会で、当時の“技術の神様”竹腰重丸さん(ノコさん)の笛の下で試合をしたこともある。上手な審判だったが、特に審判を組織的に育成するということはなかった。
 ノコさんは、56年の、メルボルン・オリンピックのときの日本代表監督だったが、大会中、インドネシア対ソ連(当時)の試合の笛を吹いている。ご本人が国際審判に登録していたこともあるが、チームに専門のレフェリーを帯同するという習慣は日本にはなかった頃である。
 そうした流れのなかで、村形さんが第3回アジア大会の決勝の審判を立派に務めた。荒れ模様になりかねない試合をコントロールし、国立競技場を埋めた観衆にサッカーを最後まで楽しませたことは、日本サッカーにとっての大きなステップとなった。
 自らも国際審判を長く務めたサー・スタンレー・ラウスは、村形さんの笛と毅然たる態度を高く評価して、後に国際審判のバッジを贈った。その年の暮れにマレーシアに遠征した日本代表チームには、監督・竹腰重丸とともにレフェリー・村形繁明の名があった。審判の権威が高まったといえる。
 その村形繁明さんは、今年9月6日に亡くなった。94歳だった。葬儀は9月10日、第4回日本サッカー殿堂表彰式の日だった。その前日、9月9日、韓国でのFIFA U−17ワールドカップの決勝で審判を務めた、主審・西村雄一、副審・相楽亨の両氏が帰国し、川淵三郎キャプテンのところへ挨拶にきた。
「大先輩の村形さんがアジア大会の決勝で笛を吹いてから50年後、日本のレフェリーがFIFAの大会で初めて決勝審判を務めました」
 殿堂表彰のレセプションで、川淵キャプテンはふたりを紹介するとともに、改めて村形さんの功績をたたえ、人柄を偲んだ。


村形繁明(むらかた・しげあき)略歴

1913年(大正2年)5月11日、東京生まれ。
1931年(昭和6年)3月、東京府立第八中学校卒業。
            4月、早稲田大学第一高等学院に入学、ア式蹴球部に入部。ポジションはGK。
1936年(昭和11年)ア式蹴球部マネジャーに。
1937年(昭和12年)3月、早大理工学部卒業。
            4月、三井物産株式会社入社。
            7月、大日本蹴球協会(現・日本サッカー協会=JFA)の審判研修会に参加。
1951年(昭和26年)JFA国際審判に登録(61年まで)。
1958年(昭和33年)6月1日、第3回アジア大会、サッカー決勝の審判を務める。FIFA(国際サッカー連盟)から国際審判胸章を受ける。
            12月、マレーシア遠征する日本代表の審判兼マネジャーとして同行。
1959年(昭和34年)三井物産ロンドン支店長代理(61年まで)。この間、JFA英国代表として、東京オリンピック前の情報収集やFA(イングランドサッカー協会)との折衝にあたる。
1963年(昭和38年)三井物産カルカッタ支店長。
1967年(昭和42年)三井海洋開発株式会社常務取締役。
1986年(昭和61年)定年のためJFA理事退任。
2005年(平成17年)第1回日本サッカー殿堂入り、掲額。
2007年(平成19年)9月6日死去。94歳。


★SOCCER COLUMN

日本のレフェリー50年間に344人が20万人に
 1958年(昭和33年)の第3回アジア大会(東京)の開催直前に、日本で初めてのFIFAによる「国際レフェリーコース」(審判研修会)が行なわれた。大会の各試合の審判員のためのもので、講師はサー・スタンレー・ラウス。後に第6代FIFA会長となったラウスは、当時、FIFAの審判担当理事だった。
 JFAは、この大会ならびに次の目標である東京オリンピックに備えて、審判の育成、登録に力を入れるようになっていた。57年の登録審判は189人(JFA6、地域協会60、都道府県123)となっていて、翌58年には合計数が344人(JFA18、地域協会116、都道府県210)と記録されている。
 約50年後の現在の審判の人数は合計18万9542人。全国47都道府県にそれぞれ1級から4級までの各クラスに分かれて登録され、このうち1級の中から国際主審7、国際副審9、女子国際主審4、女子国際副審4が選ばれ、FIFAに申請し、登録される。フットサルも1級から4級まであって、現在、1級49人を含む1万9910人が登録、フットサル国際審判員も4人が選ばれている。
 50年間に約580倍と大幅に人数も増え、審判の育成、研修は大きく進んだが、サッカーの発展のためには、まだまだ多くのレフェリーが必要のようだ。


(月刊グラン2007年11月号 No.164)

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