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英国人が伝え、組織をつくる

ブエノスアイレスの英国人子弟の学校でサッカーが行われ始めたのが、1860年代のはじめというから、南米ではどこよりも早かった(日本では英国海軍のダグラス少佐らがサッカーを指導したのが1873年=明治4年)。彼らはプレーするだけでなく、1893年2月21日に「アルゼンチン・アソシエーション・フットボール・リーグ」を組織している。
学校から街へとサッカーが広がっていったのは英国と同じだが、ラプラタ河一帯の住民は、よほどこの競技が気に入ったのか、その広がりはすごい勢いだった。19世紀の終わりには、ブエノスアイレスや300キロ離れたロサリオ、そしてラプラタ河の対岸、ウルグアイのモンテビデオなどで多くのクラブが創設され、1900年には協会は三つの選手権を設けた。第一は英国人系とその関係者のチームによるもの。第二は、土地の人のクラブによるもの(一部)。第三は学生のクラブによるものである。こうした英国人優位の体制は、この競技の普及と、地元の人たちの技量向上とともに、しだいに弱まっていった。1912年には協会の名称もスペイン語に変わり、今日の「アソシアシオン・デル・フートボール・アルヘンティーノ」が使われ、地元のクラブのリーグが選手権リーグになる。
移住者の国らしく、この頃に生まれた有名クラブは、リバープレート(1901年)とインデペンディエンテ(1905年)は英国人プレーヤー、ラシン・クラブ(1903年)はフランス人と欧州系のアルゼンチン生まれ。ボカ・ジュニアーズ(1905年)はイタリア系といったぐあい。それぞれ、同じ系統の人種や民族でクラブがつくられたが、ヨーロッパ大陸からの移住者の増加は、しだいにサッカーの勢力も英国系から欧州系に移るようになっていく。特にイタリア空の移民が急速に増えるにしたがって、サッカーのプレーもスタジアムの雰囲気も変わっていく。
(サッカーダイジェスト1989年1月号より)

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