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大戦前の4年間、光彩を放った慶應義塾のソッカーを築いた 松丸貞一(上)

オシムのワンタッチパス問答から

「今日の試合で監督の言っておられるワンタッチパスは、選手たちに浸透していましたか」という問いに、イビチャ・オシム監督は「ワンタッチパスって――サッカーはワンタッチパスばかりじゃありません」と答えた。質問した側は戸惑ってしまった。オシム流の記者会見――だなと思う。
 サッカーではそのときどき、その場面、場面でプレーをする周囲の状況がどんどん変わってゆく。したがって、その状況に応じて、ときにはボールを止めないパス(昔はダイレクトパスとも言った)をすることもあり、止めてからパスすることもあり、またパスしないでドリブルすることもある。
 だから、監督が何かのときに「ワンタッチパスを使え」と強調したとしても、それはワンタッチパスの方が適切な場面と見て言ったのであって、いつもワンタッチと言っているのではない――自分が口に出した言葉が金科玉条のように、すべてに適合されると、メディアが考えるのは困る――。
 オシムが鋭く切り返したのは、そんな意図なのだろう。
 もちろん、ワンタッチパスは攻撃での重要なテであるのは間違いない。トップチームの試合でも、ワンタッチのスルーパスの成功を良く見ることができるし、ダイレクトパスが3、4本続いて、フィニッシュに及ぶシーンは誰もが見ていてゾクゾクすることになる。そんなオシムのワンタッチパス問答から、私は戦前の慶應の黄金期のプレーを思い出した。
 1937年(昭和12年)から40年、つまりベルリン・オリンピックの翌年から太平洋戦争の開戦1年前までの4年間、関東大学リーグで4連勝した慶應はその間に、全日本総合蹴球選手権大会(現・天皇杯)に3度優勝、東西大学1位対抗(別称・東西学生王座決定戦)にも、関西の代表に勝って3回タイトルを握っていた。この間の公式試合(天皇杯関東予選を除く)37試合34勝1分け2敗、総得点170、失点17、1試合平均4.6点、失点は0.46点だった(記録は『慶應ソッカー部50年史』による)。
 この稀有の記録を持った大学チームを指導したのが松丸貞一さん(1909〜97年)だった。
 1909年(明治42年)生まれの松丸さんは、私のような大正2ケタの戦中派から見れば、15歳年長の大先輩。同じ年の月も同じ、2月4日生まれの早稲田の“鬼”工藤孝一コーチと同年輩である。工藤さんは生涯、指導に打ち込んだことで有名だが、松丸さんは戦後は大日本蹴球協会(現・日本サッカー協会=JFA)で、審判委員長をはじめレフェリーの仕事に関わっていたから、戦後派のサッカー人にはサッカー技術、戦術の理論家であり、精神力重視の強い信念を持った監督、コーチであったという印象は、いささか薄れているようだ。


70年前のワンタッチパスとランサッカー

「1人がボールを受けたとき、次にもらえる位置へ何人かが走る、ボールが次の者に渡ると、またいっせいにフライシュテレン(フリーになって受けられる位置へ動く)、そして最後はサイドからのセンタリング(クロス)からスルーパスを“直接”シュートして決める。
 防御はボールを失った時点で、その個所から始まり、FWからの場合もある。保球者を追って、攻撃展開をせばめる。それに呼応して展開面のディフェンダーは相手を密接マークする。網はだんだんせばめられ、最後の決定的なタックルの段階へ進んでゆく――」
 当時、松丸さんたちが打ち出したサッカーのスタイルは、いまで言う全員攻撃、全員守備に近く、1930年代のドイツ協会コーチ、オットー・ネルツが考えた理想に近かった。そして、受け手に渡すパスはダイレクト(ワンタッチ)が多かった。


後発のハンディをオットー・ネルツで

 松丸さんがサッカーを始めたのは、東京の府立五中(現・小石川高校)に入ってから。3年生のときに蹴球部が創設されたというから、後に名選手を輩出した(岡野俊一郎JFA名誉会長も五中出身)この名門中学校も、東京高等師範付属中学や青山師範、豊島師範などから見れば後発組となる。
 慶應の予科に入ると、ここもまた東大や早大から見るとサッカーは後進校だった。ビルマ(現・ミャンマー)人のチョー・ディンに習った鈴木重義とその仲間たちでスタートした早稲田、やはりチョー・ディンの直弟子となった竹腰重丸と旧制インターハイ(全国高等学校ア式蹴球大会)の優秀選手が集まった東大――こうした大学に追いつくために、慶應が選んだのはドイツ協会主任コーチであった、オットー・ネルツの著『フスバル(フットボール)』をテキストにすることだった。
 キャプテンの浜田諭吉さんは慶応大体育会ソッカー部が発足したときは本科2年生。先輩もコーチもいない中で、自ら『フスバル』を翻訳し、その訳文が慶應ソッカーのバイブルとなった。
 このテキストにそっての技術練習や戦術理解が重なり、また次第に上質のプレーヤーも入学してくるようになった。やがて慶應は関東大学リーグで早大とともに上位を争うが、王座は依然、東大。1930年(昭和5年)の第9回極東大会でも東大主力の日本代表が好結果を生み、日本サッカーは大きく前進した。
 31年、松丸さんはソッカー部キャプテンとなる。関東大学リーグでの順位は2位だったが、徐々に力は上がっていた。翌年、学校を卒業し、社会人としての生活に入ったが、サッカーから足を抜くことはなかった。浜田諭吉監督を助けてコーチとなり、32年、大崎辰弥主将のチームをリーグ優勝に導いた。
 東大のリーグ6連覇の後にやってきた慶應と早大の争いは、それまで野球やラグビーに比べて地味人見えたサッカーも人気大学の対決で、華やかな彩りとなる。次の年、34年の早慶による3−3、7−7の再試合大熱戦は新聞などメディアに大きく報道され、世間の関心を高めた。早大では川本泰三という得点力のあるセンターフォワード、慶應ではグラウンドいっぱいに動く万能の右近徳太郎が人気を呼んだが、個人能力の高い早大に対して、組織と戦術で対抗しようとする慶大――といった図式は変わらなかった。
 その川本たちベルリン・オリンピック組が卒業し始めると、慶應には新たな力が育った。そのチームを育てた松丸貞一が正式に監督になって、37年からの慶應のリーグ4連覇の到来を迎えるのだった。


松丸貞一(まつまる・ていいち)略歴

1909年(明治42年)2月28日、現在の東京都文京区本郷に生まれる。
1921年(大正10年)府立五中(現・小石川高校)入学。
1924年(大正13年)同校に蹴球部が設立。松丸少年も入部し、東京高等師範主催の関東中学校大会などに出場。
1926年(大正15年)4月、慶應義塾大学予科に入学。慶應アソシエーション・フットボール倶楽部に入部。この年、関東大学リーグ2部で全勝し、翌年から1部リーグに。
1927年(昭和2年)関東大学リーグ2位。以降、28年2位、29年4位、30年3位とリーグで上位争い。ただし王座は東大が連続して握る。
1930年(昭和5年)6月、第9回極東大会(東京)で日本代表はフィリピンに勝ち、中華民国と引き分けて東アジアの1位に。代表チームに慶應から1年後輩の市橋時蔵が参加。
1931年(昭和6年)慶應ソッカー部キャプテンに。関東大学リーグは4勝1敗で2位。
1932年(昭和7年)慶應大法学部卒業。千代田生命に勤める(64年まで)。
           慶應はこの年、関東大学リーグ4勝1分け、早大との優勝決定戦に勝って(5−2)、関東大学リーグ初優勝。第4回東西学生王座決定戦でも京大(関西)を2−1で破る。松丸は浜田諭吉監督を助けて、チーム強化に貢献。
1933年(昭和8年)4月、甲子園南運動場での第12回ア式蹴球全国優勝競技会(現・天皇杯)に慶應BRBが優勝、松丸はCFで活躍。
           10月、同13回大会兼明治神宮大会に東京OBクラブで出場して優勝。日本代表を多数含むこのチームで松丸はLI(左インサイド、攻撃的MF)で手島志郎、竹腰重丸(東大OB)たちとプレーした。
           この年の関東大学リーグで慶應は2位、優勝は早大。
1934年(昭和9年)秋の関東大学リーグで早慶が4戦4勝の後、12月1日の対戦で3−3の引き分けと也、同8日に再試合を行ない、またまた7−7の同点。両校優勝として、東西学生王座への出場は早大とした。
1936年(昭和11年)6月、第16回全日本総合蹴球選手権大会(現・天皇杯)で慶應BRBが2度目の優勝。決勝の相手は普成専門学校(朝鮮地区代表)でスコアは3−2。学生主力のチームで、27歳のOB松丸がセンターハーフを務めた。
           8月、ベルリン・オリンピックに出場した日本代表に慶應から右近徳太郎が加わり、欧州の批評家からも高い評価を受けた。
           慶應は関東大学リーグで2位。

1937年(昭和12年)関東大学リーグで慶應が優勝。監督は松丸貞一。この年から慶應の4連覇がはじまり、早大に代わって日本のトップチームとなる。
           第17回全日本蹴球選手権は慶應が優勝、前年のBRBに続いての連勝となった。
※1938年以降は次号に掲載


★SOCCER COLUMN

慶應ソッカー創生期と慶早時代
 1921年(大正10年)に範多竜平(神戸一中)深山静夫(広島一中)たちが学内の有志を集めて、「慶應アソシエーション・フットボール倶楽部」をつくり、同年11月に東京で行なわれた第1回ア式蹴球全国優勝競技会(現・天皇杯)関東予選に参加して、2回戦で東急蹴球団(優勝、全国大会でも優勝)に1−6で敗れている。
 24年から始まった関東大学リーグにもその初年度(第1回)から参加しているが、大学から正式に体育会の中の部として認められたのは27年(昭和2年)のこと。
 アソシエーション・フットボールという名称が、古い伝統を持つ「ラグビー・フットボール部」から紛らわしいと横槍が入ったこともあって、当時はあまり知られていないソッカー(サッカー)を用いることにして、「慶應義塾体育会ソッカー部」が誕生した。
 この頃の関東の大学では東大が強く、それに早大が続くという形勢だった。
 23年にスタートした旧制インターハイ(全国高等学校ア式蹴球大会)で活躍した優秀選手が東大に入学するようになり、東大が26年から6年連続して関東大学リーグの王座を握る。その中心は竹腰重丸。慶應に一歩先んじた早大は鈴木重義とともにビルマ(現・ミャンマー)人のチョー・ディンから直接、技術を習い、戦術を学んだ先駆者だった。
 誕生したばかりの慶應ソッカー部のキャプテン、浜田諭吉は先行する両大学を追うために、ドイツの指導書『フスバル(フットボール)』に注目し、ドイツ協会コーチ、オットー・ネルツ著の全8冊(各50ページ)を自ら翻訳して、チームのテキストとした。このドイツ流サッカーで慶應は力をつけ、32年に関東大学リーグに初優勝した。東大時代が終わり、早慶時代が大戦までのサッカーを彩ることになる。


(月刊グラン2007年12月号 No.165)

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