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JFA創立から20年間の急成長を彩った稀有のチームリーダー 松丸貞一(下)

日本サッカーアーカイブの立ち上げ

 この秋から、日本サッカーミュージアムの協力を得て、ウェブサイト「日本サッカーアーカイブ」を立ち上げました。
 日本と世界のサッカーの歩みを、多くの人に眺めてもらうために、人物日本史や年表などを掲示し、また、多くのサッカー人の応援を得て、それぞれがお持ちのフォトや書籍、プログラムなどの所在を確かめ、できればそれを展示できるバーチャル・ライブラリーも作りたいと考えたのです。
 月刊グランに2000年から連載をさせていただいている『このくにとサッカー』が、その企画の大きな基盤の一つです。
 記者育ちのクセで、歴史上の人物連載であっても、その時期に、その人を取り上げる必然を考えるために、年代順に書き連ねたわけではなかったのですが、今度の「日本サッカーアーカイブ」では、その年表に沿っても見ていただけるようになっています。
 まだスタートしたばかりでほんの一部が形となっているだけですが、どしどし書き加えていいものに仕上げたいと願っています。
 さて、そうして、改めて日本サッカーの歴史を年代を追って眺めてみると――1921年(大正10年)に大日本蹴球協会(現・日本サッカー協会=JFA)が誕生して10年足らずで、30年(昭和5年)の極東大会で日本代表が東アジアの1位になったこと、そして6年後、ベルリン・オリンピックでスウェーデンを破って世界を驚かせたこと――その進歩の早さにまず、驚くことになります。
 ボールの蹴り方も満足に教わっていなかったのが、15年でオリンピックで1勝を挙げるまでになったのですから……。
 松丸貞一さんは、その猛スピードの日本サッカーの向上に関わった一人なのです。


浜田諭吉キャプテンとともに

 1909年(明治42年)生まれの松丸さんは私より15歳年長で、若い選手時代には接点がなかったが、東京の旧制中学のOBの試合で一度、一緒にボールを蹴ったことがある。
 自分のことを「短躯、鈍足」と言い、「僕が入ったときの府立五中は、いい先輩にも恵まれず、神戸一中などと違って自然に上級生を真似て上達するといった機会もなかった。だから慶應の予科に入って神戸一中からきた豊田末吉のプレーを見て感嘆した」などと、自分は決して上手なプレーヤーではなかったとしていたが、この年寄りのOB戦で、私は松丸さんの基礎のしっかりしたプレーに感嘆したものだった。
 旧制中学でも、慶應でも、見習うべき先輩が少なかっただけに自ら工夫し練習し、プレーを開拓する力があった。慶應ではドイツのオットー・ネルツの原書を翻訳したキャプテン、浜田諭吉がプレー経験の浅いところから、松丸さんも早くから、このテキストを研究し、練習と実戦に生かすことに打ち込んだ。
 今流に言えば、慶應の予科から大学卒業(1926〜32年)、U−17〜23までの6年間は反復練習と理論の繰り返しだった。
 入部したときは関東大学リーグ2部だった慶應は1部に上がり、リーグでも上位を占め、自ら主将を務めた31年(昭和6年)には2位まで上げた。


対関学戦、死に物狂いの試合

 大学を卒業した年にコーチとなり、この年、慶應は関東大学リーグで優勝した。卒業直前の1932年(昭和7年)1月24日、西下して関西の雄、関学と戦い、前半1−4の劣勢から後半に挽回して5−4で逆転した試合がその伏線になったという。当時の関学は関東1位の東大にも負けず、実力派として通っていた。その差どおりの前半だったのを、後半に慶應が“捨て身”の防御でボールを奪い、“走り狂って”中盤を制し、相手守備のミスを誘発して奇跡のような逆転勝ちを収めたのだった。
 この話は『慶應義塾体育会ソッカー部50年』と題した50年史に、松丸さん自身が詳しく記している。慶應といえば、坊ちゃん学校でスマートといった印象がある中で、サッカーが技術重視の時代にあっても“激しく当たること”“走り回ること”という面を失わなかったのは、松丸さんの最終学年の対関学戦で、チームとして、ソッカー部としてつかんだものがあったから――とご本人は思っていた。
 浜田諭吉監督の下でコーチを務め、実力アップを図った松丸さんが監督となった37年から、慶應ソッカー部は関東大学リーグ4連覇、そして東西大学1位対抗(別称・東西学生王座決定戦)に勝ち、天皇杯優勝といった数々のタイトルを取り続けて、戦前の日本サッカーの頂点に立つことになる。


急速レベルアップとランニング

 当時、中学生であった私には、慶應を見るのは朝日招待サッカーや東西大学1位対抗などで西下してきたときぐらいしかチャンスがなかった。しかし、毎年4月には経験あるプレーヤーが卒業してゆく学生チームにあって、慶應は見事な個人技術とチームワークを備えていた。
 このときの黄金期の慶大には、神戸一中34回生の播磨幸太郎(FW)36回生の津田幸男(GK)二宮洋一(CF)笠原隆(HB)がいた。私(43回生)自身は、これらの選手から教えてもらい、プレーをともにして、このチームがどうして“無敗”を誇るようになったかのかを知った。
 1923年(大正12年)ごろからの、ビルマ(現・ミャンマー)人、チョー・ディンの指導が早稲田高等学院(早大の予科)に入り、それが旧制インターハイ(全国高等学校ア式蹴球大会)を通じて広まり、その卒業生が東大や京大に集まって両大学のレベルが上がる。一方、早大は予科と学部という学制によって、U−17からU−23(あるいはU−24)といった年齢幅のあるチームを組めるようになる。少し遅れて慶應もこの形になり、オットー・ネルツに範を取った慶應サッカーを生み出した。
 この旧制高等学校−東大、京大と、早大、慶應がそれぞれに工夫を凝らしたのが、JFA創立10年で東アジアに追いつき、15年でベルリンの奇跡を生み、そして太平洋戦争前の慶大という稀有の記録をつくったチームを送り出したといえる。
 松丸さんは関東蹴球協会発行(1946年)の蹴球蔵書第3輯『技術の研究 松丸貞一考』のランニングの項で記している。
「ランニングとキッキングは蹴球のあらゆる技術と戦術の基礎となる。巧妙なテクニックを持っていても、敵を抜き切ることのできない選手や緻密なパスワークやコンビネーションを持っていて、なお、相手の防御戦を突破できないチームがよくあるものだが、その欠点はいずれも例外なくランニング不足を指摘して誤りないであろう」
 現代の日本サッカーにも、そのままあてはまる言葉と言える。
 この松丸監督の黄金期の慶應については、この連載にある二宮洋一(2002年9、10月号)、慶應の創世記については浜田諭吉(05年10月号)、ベルリン・オリンピック代表については右近徳太郎(01年2月号)を参考にしていただきたい。
 今回は慶應サッカーに情熱を注ぎ込んだ松丸さんを主にし、審判委員としての功績はまた別の機会に――。


松丸貞一(まつまる・ていいち)略歴

1938年(昭和13年)4月7日、明治神宮競技場で世界一周遠征中の英国アマチュアのトップチーム「イズリントン・コリンシアンズ」を迎えて、全関東学生選抜チームが対戦。4−0で快勝。相手のスミス団長は日本側のFWの素晴らしさをたたえた。左サイドにベルリン・オリンピック代表、加茂正五、加茂健の兄弟ペア(早大)、右サイドに篠崎三郎、播磨幸太郎の慶應ペア、CFに慶應の二宮洋一がいた。二宮、篠崎は20歳、播磨は22歳、ベルリン組の次の世代の成長を示す試合でもあった。
           秋の関東大学リーグは慶應が5勝し連続優勝。
1939年(昭和14年)6月、第19回全日本蹴球選手権(現・天皇杯)で慶應BRBが早大を3−2で破って優勝。
           秋の関東大学リーグは5戦全勝で慶應が3連覇。
1940年(昭和15年)5月、第20回全日本蹴球選手権で慶應BRBが優勝。これで慶應として5回目となる。松丸は決勝(対早大WMW)には出場しなかったが、準決勝の対全普成戦(朝鮮地区代表)に出場、2ゴールを決めて2−1の勝利に貢献した。
           秋の関東大学リーグで5勝し慶應が優勝、4年連続チャンピオンとなる。松丸監督のもと、4年間の成績は関東大学リーグは19勝1分け。全日本蹴球選手権(本大会のみ)10戦9勝1分け、東西大学1位対抗と朝日招待は合計7試合で6勝1敗。通算で37試合34勝1分け2敗、総得点170、失点37。タイトルは日本蹴球選手権3、大学リーグ4、1位対抗3回というべき数字となった。
1946年(昭和21年)関東蹴球協会刊蹴球蔵書第3輯『技術の研究』(50ページ)を出版。
1952年(昭和27年)大日本蹴球協会(現・日本サッカー協会=JFA)理事。
           8月、40歳以上の仲間と四十雀クラブを結成。年寄サッカーを楽しんだ。
1953年(昭和28年)JFA常務理事(75年まで)。この年、ドルトムント国際学生大会に参加の日本代表チームのコーチとして渡欧。
1955年(昭和30年)JFA審判委員長。
1958年(昭和33年)第3回アジア大会審判部長。
1960年(昭和35年)ローマ・オリンピック視察員。
1964年(昭和39年)東京オリンピック蹴球競技審判部長。
           JFAの役職を退いた後も、四十雀クラブや五中OBクラブでボールを蹴った。
1997年(平成9年)1月6日、没。


■東西大学1位対抗
1929年 東大 3−2 関学
1930年 東大 2−1 京大
1931年 東大 2−2 関学
1932年 慶大 2−1 京大
1933年 早大 5−2 京大
1934年 早大 6−0 京大
1935年 早大 12−2 関学
1936年 早大 3−2 神商大(現・神戸大)
1937年 慶大 3−0 京大
1938年 慶大 2−3 関学
1939年 慶大 4−2 関学
1940年 慶大 3−0 関学
1941年 中止
1942年 早大 10−0
※1929年の第1回から42年の第14回(中止1回)の結果は関東側の11勝1分け1敗

■1924〜42年の関東大学リーグ1部上位3校
 年   1位   2位   3位
1924年  早大   東大   法政
1925年 東京高師  東大   早大
1926年  東大   法政   早大
1927年  東大   慶大   早大
1928年  東大   慶大   早大
1929年  東大   明大   早大
1930年  東大   早大  一高、慶大
1931年  東大   慶大  早大、一高
1932年  慶大   早大   東大
1933年  早大   慶大   東大
1934年 早大、慶大の両校優勝 立教
1935年  早大   東大   文理大※
1936年  早大   慶大   天理大
1937年  慶大   東大   早大
1938年  慶大   東大   早大
1939年  慶大   早大   東大
1940年  慶大   商大   早大
1941年 早大、東大の両校優勝 慶大
1942年  東大   早大   明大
※1 32年の優勝決定戦 慶大5○2早大
※2 34年の優勝決定戦 早大7△7
※3 41年の優勝決定戦 早大1△1
※4 現在の筑波大


(月刊グラン2008年1月号 No.166)

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