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オシムに代わる代表監督――火事場に強い男 岡田武史

「このくにとサッカー」は、日本のサッカーが“いま”のかたちになるまで、そのときどきに大きな力を発揮し、後にまで影響を及ぼした先人を紹介する連載ですが、今回は番外編として病床のイビチャ・オシムさんに代わって、日本代表チームの監督に就任した岡田武史さんについてです。

 オシムさんが脳梗塞で倒れ、状態が危機的であると知ったとき、多くのサッカー人は日本代表チームの監督は誰が引き受けるのかを考え、その多くは岡田武史の名を頭に浮かべたに違いない。
 私もその一人。適任者の彼が、現在、どこかのクラブと契約しているという立場でなく、フリーであったということが、彼にも日本サッカー協会(JFA)にとっても幸いだった。JFAの中では環境問題の仕事をしていて、2007年12月25日付の『週刊サッカーマガジン』の裏表紙に彼の写真入りで、JFAの環境プロジェクトの広告が掲載されたこともある――。「岡田君のことだから、この方面でもいい仕事をするだろうが、環境の仕事は彼でなくてもほかにもいるだろう。しかし、今のタイミングで日本代表監督ということになれば、岡田武史が最適――。本人にとっても易しい仕事ではないが、まず引き受けるだろう。彼には1998年(平成10年)ワールドカップ・フランス大会の経験もあり、その後のコンサドーレ札幌でのJ2からJ1への昇格、そしてJ1での横浜F・マリノスでの連覇といった実績もある。年齢的にも56年(昭和31年)生まれで、51歳は働き盛りの時期でもある」と仲間内で話していた。
 就任発表の記者会見でも「自分の内から、沸々とわいてきた」と言い、「運命的なものを感じた」と話したが、その記者会見でテレビに映し出された彼の顔と特徴的なメガネを見ながら、私は彼との初めての出会いを思い出していた。


中学でドイツ留学への意思

 私が岡田武史に初めて会ったのは、彼が中学生のとき、ドイツへサッカー留学したいという彼の気持ちを聞かされ、アドバイスしたことがあった。それは1969年(昭和44年)の夏、前年のメキシコ・オリンピックでの銅メダル獲得で、サッカーの人気が上昇中の頃だった。
「中学生の息子がドイツへ行ってサッカーをしたいと言うので、親父さんが困っている。相談に乗ってほしい」と友人に請われた。ドクターであるお父さんからも事情を聞いてから、本人に会うことにしたのだった。
 大阪の桜橋交差点に近いサンケイビルの1階にある喫茶店にやってきたのは、ひょろりとした体つきの「おかだたけし」という丸い顔で丸いメガネをかけた中学生だった。
 本人の気持ち次第では、本気になって留学先を考えなければいけないかなという考えも頭の中にあったが、第一印象は、この体つきでは単身留学はまだ早いと思ったので、率直にそう言った。そして「大阪にも強い高校チームがあるだろう」と言うと、「そちらは自分に合わないと思う」と答える。「なるほど、それなら、住吉高校や市岡高校といった古い伝統のある学校はどうだろう」と返すと、「公立校は受験で受かるかどうか自信がない」と言う。
「僕は学歴主義でもなく、学校の勉強が一番大事とは思わないが、はじめから受験に自信がないというのは感心しないね。サッカーは頭脳を使うスポーツだから、勉強して頭を練ることも大切だよ」と言うと、本人はちょっと“ふくれっ面”をしたが、ともかくも「分かりました」と言って帰っていった。
 後から、中学でのドイツ単身留学はやめることにしたと聞いた。


低迷期に輝くアジア大会4位

 2度目に会ったのは、それから10年ばかり後。確か、1980年(昭和年55)のジャパンカップ(現・キリンカップ)のときだった。静岡の草薙陸上競技場で、試合前に、日本代表が並んでいる近くを歩いていたとき、「賀川さん、岡田です。ドイツのときにはお世話になりました」と声をかけられた。
 一緒にいたロクさんこと、高橋英辰さん(故人)に「早稲田から古河電工に入った選手だよ」と教えられた。丸い特徴のあるメガネを見て、あのときの中学生だったか――と思い出した。
 ひょろりとした中学生が、いい体になって代表に入っていたとは――当時、私はスポーツ紙の編集局長で、自分で取材し記事を書くことが少なく、彼の早大での活躍も見ていないが、それ以来、岡田武史は気になるプレーヤーとなり、テレビでの楽しみも増えた。82年のニューデリーでのアジア競技大会の準々決勝で、彼が後方から持ち上がって攻撃に出たのを画面で見たとき、「前へ出るタイミングをどうやらつかんだようだ」とステップアップを喜んだものだ。
 中学、高校生のときには、結構、仲間内で上手な方だったのが、代表では守備的な位置に入り、地味な役どころながら攻撃に絡めるようになっていく――いわば、試合の流れをつかみやすいポジションで、プレーヤーとしての経験を重ねた。その後、古河電工のコーチとなり、この間にドイツへサッカー留学する。
 このコーチ修行はそれだけで一つのストーリーが書けるほどの苦労の連続だったようだが、中学生の頃のドイツ志向は、コーチになって満たされることになる。
 自ら苦労を買ってでもサッカーのコーチ業に取り組もうとする彼の姿勢を日本代表の加茂周監督が評価して、98年(平成10年)のワールドカップ・フランス大会を目指す日本代表チームのコーチに起用する。


予選中の監督交代

 その加茂監督がアジア最終予選でつまづき、チームの気合を一新するためにJFAの長沼健会長は監督交代を決めた。代わった岡田武史が苦境からアジア第3代表決定戦まで盛り返し、ジョホールバルでイランを破ってアジア代表の一角を占めフランス大会へチームを導いた。1997年(平成9年)11月16日の試合はいまなお、サッカーファンの記憶に残っている。
 フランスでの本大会は3戦3敗に終わった。アルゼンチン、クロアチアの2強にそれぞれ0−1、ジャマイカに1−2の成績は我々には不満が残っても、世界の舞台で日本のサッカーを披露し、高い評価を受けることになった。
 少年時代からの負けず嫌いと意志の強さは、コンサドーレ札幌、横浜F・マリノスのJクラブで発揮され、ときに失敗はあっても、前者をJ2からJ1へ昇格、後者をJ1連覇という高い実績を残した。
 97年同様に緊急事態を引き受けた岡田武史監督は、当面、アジア予選突破を目標としているだろうが、多くの人は代表監督2度目の彼によって、本大会でもチームとともにいい成績を挙げるだろう――と期待しているはずである。
 危機に立ち向かう不思議な運を持つ岡田監督に、期待する声は高い。


岡田武史(おかだ・たけし)略歴

1956年(昭和31年)8月25日生まれ。
1969年(昭和44年)4月、大阪市立住吉中学に入学。サッカーに夢中になる。
1972年(昭和47年)4月、天王寺高校に入学。
1980年(昭和55年)3月、早大を卒業。
           4月、古河電工に入社。サッカー部で日本リーグ(JSL)1部でプレーを始める(90年まで)。189試合、9得点。
           日本代表に選出され、6月1日、ジャパンカップ・対エスパニョール戦に出場。
           日本代表としては、82年の第9回アジア大会ベスト4を始め国際Aマッチ24試合に出場、1得点。
1993年(平成5年)ジェフ市原(現・ジェフ千葉)のコーチに。
1994年(平成6年)12月、日本代表コーチに(監督は加茂周)。
1997年(平成9年)10月、日本代表チーム監督に。
           11月16日、ジョホールバルでのイラン戦に勝ち(3−2)ワールドカップ・フランス大会の出場権を獲得。
1998年(平成10年)6月、ワールドカップ・フランス大会に出場。アルゼンチン、クロアチアに0−1、ジャマイカに1−2で敗れ、1次リーグ敗退。
1999年(平成11年)J2・コンサドーレ札幌の監督に。
2000年(平成12年)コンサドーレがJ2で優勝。J1に昇格。
2001年(平成13年)コンサドーレがJ1で11位。
2002年(平成14年)コンサドーレ監督を退く。
2003年(平成15年)J1・横浜F・マリノスの監督に。03、04年と2年連続でJ1を制覇。
2005年(平成17年)F・マリノスがJ1で9位。
2006年(平成18年)リーグ戦・第19節対大宮アルディージャ戦での敗戦後に辞任を発表。
2007年(平成19年)12月7日、脳梗塞で倒れた日本代表・オシム監督の後任として同監督に就任。


★SOCCER COLUMN

初代鈴木監督以来78年、25代目の岡田新監督
 日本サッカー協会(JFA)が代表チームを編成したのが、1930年(昭和5年)の第9回極東大会のとき。初代監督は鈴木重義(故人、1902〜71年、就任当時27歳、早大卒)だった。岡田武史新監督は25代目。岡田自身を含めて4人が2回務めているので、人数上では21人となる。
 21人のうち14人目(17代目)の横山謙三(1988年1月〜91年7月)までは日本人で、第18代ハンス・オフトから外国人のプロフェッショナル・コーチが監督となった。
 以来、第18代ハンス・オフト、第19代パウロ・ロベルト・ファルカン、第20代加茂周、第21代岡田武史、第22代フィリップ・トルシエ、第23代ジーコ、第24代イビチャ・オシム、第25代岡田武史となる。

 アマチュア時代の代表チーム監督の実績を見ると、鈴木重義監督(コーチ・竹腰重丸)の1930年の極東大会1位、36年のベルリン・オリンピック1勝、第8代長沼健監督(コーチ・岡野俊一郎)の68年メキシコ・オリンピックでの銅メダルが目立っている。
 プロ時代に入って、オフト監督によって92年(平成4年)のアジアカップ優勝があり、第21代岡田武史監督によって、初めてのワールドカップ(98年フランス大会)出場が記録され、第22代のフランス人のトルシエ監督のときに2002年日韓ワールドカップで16強入りし、続くジーコ監督はアジアカップ優勝とワールドカップ予選突破は果たしたが、06年のドイツ大会本番では1次リーグ敗退に終わっている。
 オシム監督の後を受けた新監督が、短い期間内に前任者たち、そして自らの実績を超える代表チームを作り上げるかどうか――。


(月刊グラン2008年2月号 No.167)

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