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第31回 右近徳太郎 戦野に散ったサッカー人。ベルリン逆転劇の2点目を決めた不思議な天才

難しい技を難なくこなす才能

 8月は鎮魂――声高に靖国神社を論じようとは思わないが、戦野に倒れ、理不尽にも若い才能を散らすことになった先輩や仲間を皆さんとともに偲びたい。

 テレビで日本代表キャプテン、宮本恒靖の簡潔な代表選手評があった。中田英寿を「欠くことのできない人材」中村俊輔を「理論派」小野伸二を「天才」と言った。要を得た答えに感心しながら、私は「天才」から1936年ベルリン・オリンピック代表の右近徳太郎(うこん・とくたろう)さんを思うのだった。
 もっとも、小野伸二の才能はまずボールタッチにあるのだろうが、右近徳太郎はボール扱いもさることながらGK以外のどのポジションでも、それも右サイドでも左サイドでもやってのけるオールラウンドの才があった。
 東大や早大よりやや遅れて関東大学リーグに参入した慶大は、昭和10年代の後半に黄金時代を作るのだが、その慶大の総帥ともいえる松丸貞一さん(故人)が自分より4歳若いこの後輩を「先輩たちが苦心して開発して身に付けた技を苦もなくなってみせ、新しいポジションを与えられると、ときに反発することもあるが、実際にプレーすれば誰よりも優秀だった。相手のパスの予測、自分の位置取り、パスのカット、自ら出すパスの角度と強度、高さの適切なこと。そして、こうした才能を発揮するのに自ら決意したときのものすごい労働力――」と口をきわめて賞賛している。


ボクの空振りを予見したのか

 ベルリン・五輪の代表はチームワーク重視ということで、当時、国内最強だった早大から10人、それに東大から3人、慶大と東京高等師範と、朝鮮地方の普成専門から各1人を加えての16人となった。そのベルリンの逆転劇についてはこの連載の2人目「川本泰三――シュートの名人」のところで少し紹介した。日本の攻撃はディープ・センターフォワードの川本のところでキープ、そこからの展開が一つの手だった。川本あるいは左ウイング加茂正五のドリブルの間に第2列の加茂健が飛び出す早さはベルリンの批評家のあいだでも評判になったが、同時に相手の強力な左からの攻撃を防ぐためバックラインにまで戻った右近の深い位置からのタフなフォローも注目された。
 チームの2点目は、この右近のゴール、それも左サイドからCF川本に回ったボールを「いつになく力んだのか蹴り損なった(川本の話)」のを右近が拾って決めたのだった。「早稲田と慶応で学校も違いライバル同士なのに、日本代表や東西対抗で同じチームになると、一番こっちがほしいと思うタイミングでパスをくれるのが右近だった」とつねづね語る川本さんだが、この2点目のプレーには「彼は、ボクの空振りを見越していたのか」と首をひねったのだった。
 卓越した運動量にこういう不思議さを持つところが、右近徳太郎の「天から授かった才能」だったのかもしれない。


後輩をマッサージする優しいOB

 神戸一中32回(昭和6年卒業)の右近さんから見れば、同43回(昭和17年)の私は11年後輩にあたる。これくらい年が離れると、昔の旧制中学生にとって日本代表の先輩といえば“神様”的になるものだが、神戸一中のグラウンドへ後輩たちの指導に来てくれたのは、ごく気さくな、親切な右近さんだった。
 親切といえば、右近さんより少し若い高橋英辰さん(故人、日本代表、日本代表監督)が代表の練習で、左ウイングにいて右足アウトサイドのパスを右近さんからもらったので「自分は足が遅いから、曲げるボールなら戻るようにしてほしい」という注文を告げると、次からきちんとフックボールをよこしてくれたという。その親切なパサーが、ここぞと飛び込むときの迫力はまた格別なのを何度も見た。
 ベルリン世代と、しばらく後の日本サッカーで、幸いなことに何人かの名選手を知った。その一人である右近さんは御影師範付属小学校で少年期からボールに親しみ(チョー・ディンが御影師範へ指導に来ていた大正末期、といえば、サッカー史家はうなずくだろう)、神戸一中では同じ付属小学校で一年上の大谷一二さんとともに右、左のウイングとして活躍し、慶大ではインサイド・フォワード(攻撃的MF)で、チャンスメーカーでゴールゲッターだった。
 昭和18年の東亜大会で日本代表の左FBでプレーする右近さんを見て驚いたものだが、フィリピンのFWを相手に落ち着き払った守りは、何年もこのポジションの経験を持つかのようだった。
 この稿を書きながら、昭和14年の全国中学校選手権(現・高校選手権)に出場したとき、合宿で兄・太郎の足を懸命にマッサージしてくれた右近さんの姿を思い出した。マッサージしてもらった兄も、チョップキックのコツを伝授してもらった弟の私も、対戦中は海軍と陸軍の飛行機乗りを志願して特攻隊員となり、結局無事に帰ってきたのに、右近さんは昭和17年に陸軍に招集され、昭和19年(1944年)にブーゲンビル島で戦死された。31歳だった。


(週刊サッカーマガジン2005年8月16日号)

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