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第32回 戦野に倒れたフットボーラー 松永行さんをガダルカナルで、竹内悌三さんをシベリアで失う

 猛暑の中の東アジア選手権大会は選手たちにとって、せっかくの頑張りも第1、第2戦は勝利につながらずつらいことだったろう。
 6月のアジア予選からコンフェデレーションズカップにかけて、いいムードだったのがちょっと水をさされた気になるサポーターも多いことだろうが、朝鮮半島で、朝鮮半島のチームと試合をすれば相手側に“超”の字がつくぐらい気合が入るのは何十年来変わらないこと。そういう相手の意気込みを跳ね返すのに、こちらの気合の大切さもさることながら、一段レベルの高い技術がなくてはなるまい。
 大会での最終成績がどうなっても、若い北朝鮮や中国に苦戦したことで、もっと技術を高める必要を感じてくれればいいのだが…。
 今の話はこれくらいにして、今回も戦野に倒れたフットボーラーの続きを。


俊足が生きた3点目

 ベルリン・五輪の対スウェーデン逆転劇の2点目を決めた右近徳太郎さんとともに、決勝ゴールを決めたヒーローの松永行(まつなが・あきら)さんは、太平洋戦争の激戦地ガダルカナルで戦死された。昭和18年(1943年)1月20日だから、28歳――今の時代ならサッカープレーヤーとして最も充実してゆく時期である。
 サッカーどころ静岡の中でも戦前から盛んなことで知られていた藤枝、そこの旧制志太(した)中学から東京高等師範(後に文理大、現・筑波大)に進み、ベルリン・オリンピックの代表に選ばれた。大正3年(1914年)生まれだから22歳だった。関東大学リーグで文理大はキック・アンド・ラッシュで通っていたから、パスをつなぐ早大の主力とはスタイルが違っていたが、松永さんの100m10秒台といわれる俊足の魅力があったのだろう。
 試合のリポートや、後に関係者から聞いたところでは、試合の途中までは松永さんは孤立した形だったらしい。しかし、日本の挽回の勢いとともに持ち前の動きの鋭さが出始め、2−2のあと、タイムアップ5分前に決勝ゴールを決めた。
 相手DFのミスに付け込んでボールを奪った松永さんが、突進してシュート。GKの近くから蹴ったボールが股間を抜いた。映画では、この劇的な場面は右ウイングのこの人が、相手ゴールへ左側から突進しているから、大きな動きであったはずだ。奇跡の逆転劇の決勝ゴールは、相手の攻撃に耐えた日本チームの中で最速のFWの足から生まれたのだった。


ともに日本代表、松永3兄弟

 松永行さんには残念ながらお目にかかるチャンスはなかったが、サッカー界で有名な松永3兄弟の2番目、信夫さん(1921年12月16日生まれ)や、末弟の碩(せき)さん(1927年6月25日生まれ)とは試合でも取材でも顔を合わせた間柄。2人とも日本代表であり、体のしっかりした信夫さんはセンターバック、足技の器用な碩さんはFW、どちらも足の速いプレーヤーだった。信夫さんから聞いたところでは、行さんは高師3年生で静岡の歩兵34連帯に入隊し、本来なら1年で除隊するはず(教育者にはそういう配慮もあった)だったが、戦雲急となって南方へ移動してしまったそうだ。
 行さんの遺品としてベルリンへ持っていったトランクを預かっていて、近く静岡県協会のミュージアムに寄贈するという。JFAの機関誌・蹴球に「ベルリンの感動」が掲載されていて、行さんは「今後の日本ではこれまでのチームプレーなどよりも、まず個人プレーの上達が第一歩、まったくフリーな気持ちでネコが球に戯れるようにボールに親しむようにするのが大切」と述べている。
 若いうちに国際試合の修羅場を踏んだ経験を持つ得がたい指導者を私たちはガダルカナルで失ってしまった。


大会後に丹念な欧州ルポ

 ベルリンのチーム・キャプテン、竹内悌三さんがシベリアの抑留中に亡くなられたのも痛ましい限りである。竹内さんは昭和5年(1930年)の極東大会で日本代表がフィリピンを破り、中華民国と3−3で引き分け、極東の1位となったときのDFであり、ベルリン大会は28歳で最年長、選手村入村式では日の丸の旗手を務めた。昭和5年の代表チームの主将であり、ベルリンのコーチであった竹腰重丸さん(故人)の最も信頼厚い後輩で、温厚篤実な人柄は仲間の信頼を集めた。
 大会後、欧州各地を回って丹念なレポートを機関誌「蹴球」に寄せている。川本さんの書きものの中に竹内さんの結婚式に招待されたくだりがあるが、竹内さんの息女、石井幹子さん(照明デザイナー)は創設時からJリーグに関わっている。不思議な縁である。


一言お願い

 前々から“戦没フットボーラー”についてまとめたいと思いながら、果たさずにいます。今回、不十分ながらベルリン代表の3人を書かせてもらったのは、これを機会に多くの方々に関心を持っていただきたいためもあります。ご自分の身近に、あるいは校友会誌や学校の部史などで戦没者の記事などをご覧になった方は、お知らせいただければまことに幸いです。どうぞよろしく。

Mail to:info@fcjapan.co.jp


(週刊サッカーマガジン2005年8月23日号)

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