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ウルグアイとの対抗試合

国内のチームが増え、リーグが定期的に行われるようになった頃、ラプラタ河をはさんでのウルグアイとアルゼンチンの対抗試合は熱を帯びたものになる。1905年8月15日、最初の両国代表チームがブエノスアイレスで対戦(0対0)してから、1916年まで両国は43試合をし、アルゼンチンが22勝、ウルグアイが13勝、引き分け8、得点はアルゼンチンが75、ウルグアイが59点だった。アルゼンチンと同じ頃に、やはり英国人によってサッカーが持ち込まれたウルグアイでも、このスポーツは急速に市民の心をとらえたらしい。そして、大国アルゼンチン、南米第一の大都市ブエノスアイレスに対する対抗意識の強いモンテビデオの市民にとって、ウルグアイ対アルゼンチンの“国際試合”は、日ごろの“大国へのフラストレーション”を発散させる絶好の場となった。
1981年に2週間ばかりモンテビデオに滞在した私は、ウルグアイ人のブエノスアイレスに対する意識の強さに全く驚いたことがある。もちろん、かつてブエノスアイレスがラプラタ連合の盟主として、ウルグアイを配下に入れていたという歴史的な背後もあったろうが、ともかくブエノス嫌いのなかには、同じアルゼンチン代表選手でも、マラドーナはブエノス出身だからダメ。ケンペスはコルドバ出身だからいい。というものもいた。
今年のソウル・オリンピックでの各競技の応援の時に、ソウル市民達の日本に対する反感が話題になっていたが、私のように、戦前、戦中に日本が朝鮮半島を領有していた頃を知っているものは、韓国の人たちの心情は分かるような気がする。第一、経済力が大きくなると“大きい”ということだけで、近隣を威圧して不愉快にさせるのかもしれない。そうした気持ちがウルグアイのサッカーを駆り立て、それがまたアルゼンチン側を奮い立たせ、両者が勝つために技術水準を高め、戦略を練るのだった。このウルグアイ戦が軸となり、チリとブラジルが加わって、1916年に南米サッカー連盟(CONMEBOL)が結成され、南米選手権大会(コパ・アメリカ)を発足させた。
1917から昨年の1987年まで、70年の歴史を持つこの大会は、ラプラタのサッカー人の主導によるものだ
(サッカーダイジェスト1989年1月号より)

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