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第35回 宮本征勝(1)強い体を自ら鍛え1対1に闘志を燃やし続けた不屈のプロフェッショナルDF

ジーコが願う個人の体力強化

「これからの10ヶ月は1日1日が勝負です。選手たちは、自分のレベルアップを心がけてほしい」
 2006年の本番を控えて、選手に望むこと――ととわれてジーコは当然のことながら、各選手の個人能力のアップと答えた。その中で“フィジカルの強化”については、ひときわ強い口調だった。選手時代のジーコを「パーフェクトなフットボーラー」と呼んだソクラテスは「彼のテクニックは羨ましくさえある」と言ったが、そのハイテクニックの主(ぬし)が、日本代表の筋力アップを強調したのである。
 選手たちが自分の努力で、ヘディングのジャンプを1センチでも高く、タックルの足の伸びを1センチでも長く――、そしてその足を出す早さが、0.1秒でも早くなれば、それはプレーヤー自身にとっても、チーム全体にとっても、大きなプラスになる。
 若い頃、しっかりしたトレーニングで体を鍛え、サイボーグとまで言われたジーコは、技術力のアップとともに体力強化の効果を誰よりもよく感得しているはず。その彼の選手たちの努力への期待が痛いほど伝わったテレビ・インタビューだった。
 鹿島アントラーズの初代監督、宮本征勝(みやもと・まさかつ)は、選手時代その“1センチ”の努力を飽くことなく続けた一人。東京、メキシコの両オリンピックでの日本の活躍を導いたデットマール・クラマーが「プロフェッショナル」と呼んだのは、ヨーロッパのプロ並の強い体を持っていたからだった。クラマーから見れば「ひ弱な」日本選手の中で、宮本の強靭な体と、大柄なヨーロッパの選手とぶつかってもひるまぬ闘志は驚きだった。


釜本を追い、杉山に挑む

 ボールを叩くインパクトの強さと同じように、タックルに入る早さは相手にとって脅威であり、大きくはなかった(170センチ)が、ヘディングを競るジャンプの高さと体の寄せは長身組を困惑させた。
 相手ボールを奪いにゆく迫力、そして追走の早さ――は地味なディフェンシブ・プレーヤーでありながら人を魅きつける力があった。日本サッカーリーグ(JSL、Jリーグの前身)の古河電工(ジェフ千葉の前身)で、ヤンマー(現・セレッソ大阪)の釜本邦茂や、三菱(現・浦和レッズ)の杉山隆一といった若いスターにハードタックルを仕掛ける宮本の果敢なプレーは“格闘技”としてのサッカーの面白味をスタンドに伝えた。彼の背番号が8であったところから、そのころ「鉄腕アトム」とともに人気のあったアニメ「エイトマン」がいつしか宮本の愛称ともなった。
 宮本征勝というプレーヤーを初めて見たのは昭和32年(1957年)1月、当時西宮球技場で行なわれていた全国高校選手権の第35回大会だった。
 初出場の東関東代表、日立一高に彼はいた。日立一のイレブンは1回戦で山城(京都)を4−1、2回戦で東京の城北を7−1、準々決勝で秋田商(西奥羽)を3−1で破り、さらに準決勝で名門・藤枝東(静岡)を2−1で倒して決勝に進み、浦和西(埼玉)に2−3で惜敗した。
 HB(MF)のラインにいた彼の印象は征勝(まさかつ)という勇ましい名前のとおり、非常に力強いプレーをすること、実際の体の大きさよりもグラウンドで大きく見える、いわば“場(ば)”のあること、何よりキック力、蹴ったボールの勢いの素晴らしいことだった。実は日立一高は前年の神奈川国体でベスト4に入っていて、そのとき3年生であった鎌田光夫とともに、1年下の宮本も注目されていたとか――。


ずば抜けたキックを持つ高校生

 高校選手権はこの前年に浦和高が2連覇し、そのセンターフォワードに志賀広という逸材が出たことで、日本サッカー復興の底力になると期待を持たれていた。第35回大会は優勝した浦和西や準優勝の日立一に代表される力強さが特色であった。その象徴的な存在が後のエイトマンだった。宮本征勝は大会の優秀選手選考で一番に選ばれた。
 私自身にとっても、相手ボールを奪い、長く強いボールを前へ送った宮本征勝の姿は、長い高校サッカーの取材の中でも忘れることの出来ない情景の一つとなっている。
 高校を卒業して早大に入ると1年生の秋には関東大学リーグに出場するようになる。早大の在学中に関東大学リーグ優勝3回、東西学生対抗優勝2回。卒業すると川淵三郎(現・JFAキャプテン)とともに古河電工へ。ここで高校の先輩・鎌田や、早大のかつての上級生・八重樫茂生らとともに長沼健(元・JFA会長)を助けて古河電工の黄金時代を作る。
 1959年から日本代表にも入るようになった。60年のローマ・オリンピック予選、対韓国の悔しい敗戦を経て、宮本は東京オリンピックを目指す日本代表の重要なディフェンダーになろうとしていた。
 大きな不運が待っているとは誰も予想しなかったが…。


(週刊サッカーマガジン 2005年9月13日号)

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