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第36回 宮本征勝(2)重症を克服して“東京”の代表に加わり“メキシコ”で歴史的ゴールを演出

ギプスをつけて自転車トレーニング

 ローマ・オリンピックの予選敗退から東京オリンピックまで、サッカー界が不安と期待の交錯の中で過ごした4年間は、私にはいまや懐かしい思い出だが、日本サッカー協会(JFA)の幹事たちには大変な日々だっただろう。
 そんな中で(1)外国人のプロコーチ(デットマール・クラマー)を招く(2)毎年、長期のヨーロッパ・ツアーで代表を鍛える――といった新しいJFAの強化策の効果が表れ始めた。
 そして1964年の夏にはヨーロッパでの連戦の最終試合でスイスの名門クラブ、グラスホッパーに完勝し、地元のメディアを驚かせた。「日本はスイスのどのチームより現代的な試合をした」と。この9月8日に、チューリヒで演じた4−0の快勝によって、日本代表は本番“東京”への自信を深めたのだった。
 しかし、残念なことに試合のメンバーに宮本征勝の名はなかった。その20日前の8月19日、プラハでのチェコ1部リーグ選抜(1−3)との試合で左足に重傷を負っていたからだ。
 長沼健監督、岡野俊一郎コーチはクラマーと協議したうえ宮本を単身で帰国させ、復帰に努めさせた。26歳の最盛期に迎えるはずだった東京オリンピックを前にしての不運に、彼は夕食にも現れず一人自室で泣いていた――とは長沼監督の回顧だが、チームが日本に帰った頃には、彼はギプスをつけたまま自転車に乗るトレーニングを始めていた。
 彼の努力と驚くべき回復力は左足の負傷を克服し、体調を復活させて最終的には代表19人の中に名を連ねてしまう。
 ディフェンダーには片山洋と山口芳忠、鎌田光夫、鈴木良三、上久雄らがいた。彼は本番での出場はなかったが、体調の戻った宮本が控えにいたことは、監督、コーチにとってはずいぶん心丈夫であったに違いない。


古河で見せた守りの魅力

 東京オリンピックの翌年から、企業8チームによる初の全国リーグ、日本サッカーリーグ(JSL)が始まる。
 東洋工業や八幡製鉄(新日鐵)に比べると古河電工は選手の年齢も若く、優勝をもぎ取る力はなかったが、経験を背景とした味のあるプレーで上位を占めた。今も記憶に残るのは、2年目も破竹の勢いで優勝へ突っ走る東洋工業を向かえての第13節、東京・駒沢での試合(66年11月6日)、鎌田光夫をスイーパーとし、宮本を相手のキープレーヤー小城得達に当て、90分を無失点で守り抜いた。八重樫茂生(34)川淵三郎(30)長沼(36)平木隆三(34)といったベテランたちを総動員しての0−0だったが、このときスタンドは改めて宮本の密着マークの強さを見た。それは伝え聞く66年ワールドカップ優勝チーム、イングランドのノビー・スタイルズ(ポルトガルのエウゼビオを抑えた)を思わせるものだった。
 そしてまた国内試合での初めてのスイーパーの導入は、2年後のメキシコ銅メダルの守備の伏線となっていた。


“歴史を変えた”先制点を演出

 1968年10月のメキシコ・オリンピック、宮本征勝は日本の全6試合のうち5試合に出場した。
 1次リーグでナイジェリアに3−1で勝ち、ブラジル(1−1)スペインと引き分け(1−1)準々決勝に進んだ日本はここでフランスと対戦した。
 グループリーグで浅いディフェンス・ラインを保って、開催国メキシコをオフサイドトラップで苦しめ4−1で勝って、Aグループ1位で勝ち上がってきたフランス――。
 日本側の対策は「相手の浅いディフェンス・ラインの突破には、オフサイドを考えれば、壁パスやスルーパスによる突破よりも、クロスパスをディフェンス・ラインの裏へ送って逆サイドが斜めに走り込むほうが良い」とした。守りは鎌田のスイーパー、相手のプレーメーカーに片山、FWの2人には、それぞれ山口と宮本が付く、ということになった。
 日本の先制点は25分、左サイド寄りでボールを取った宮本が右へ振り、これをDFの背後へ出た釜本が受けてドリブルシュートを決めた。
 このパスを成功させるためには、蹴るタイミングが遅れないことと、ボールの速さが的確であることだが、宮本からのボールは、釜本のドリブルとシュートの能力を十分に引き出した。
 このあと同点にされ、後半に杉山−釜本のラインで2−1とし、さらに左からの小城の長いパスを釜本が受けて中へパス、渡辺が決めて3−1とした。
 試合後にデットマール・クラマーは「君たちは歴史を作った」と日本選手たちを称賛した。それは単に日本がベスト4に進んだということだけでなく、アジアのチームがヨーロッパの大国フランス代表を倒したことへの評価だった。
 その先制ゴールは宮本が相手のチャンスメーカーを封じつつ、見事なタイミングで送ったパスからだった。それは彼が高校生の頃から培ってきた強いキックの能力が、桧舞台で発揮された瞬間でもあった。
 このフランス戦を思い出すたびに、私は現在の欧州一流試合のパスの速さと通じるものを宮本に重ねることになる。


(週刊サッカーマガジン2005年 9月20日号)

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