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第37回 宮本征勝(3)ひたむきにプレーし、ひたむきに指導し、Jリーグ最初の優勝監督となった

対ホンジュラス戦から

 今回はメキシコ・オリンピック銅メダリストの一人、宮本征勝の3回目――。40年前の釜本邦茂と並ぶ強いキックの持ち主の続きです。
 9月7日のキリンチャレンジカップ2005、日本代表対ホンジュラス代表は、日本が0−2から追撃し、最後に5−4で逆転勝ちするエキサイティングな試合だった。
 この波乱万丈の試合の中で、ボルトンへ移籍後まだプレミアシップでプレーしていない中田英寿が珍しく失点につながるミスを犯す場面もあった。調子がいいとは見えなかったが、そういう状態でも強いパスを送るという本来のプレーは、ここというところで発揮されていた。
 中田英寿をはじめてナマで見た日本代表対トルコ戦(97年6月・長居)で20歳の彼を見て、日本もフランス・ワールドカップへ行けるだろうと思ったものだ。
 若いうちから周囲を見て流れを読む能力は素晴らしいうえに、ヒザが強く、ボールを叩いて鋭く飛ばせるのが魅力。久しくしっかり蹴るプレーヤーを見ていなかっただけに、彼への期待を深めた。
 フランス大会の前の座談会で中田英寿の評価を問われて、もし彼が今のドイツ代表に入れば、ドイツは大会の上位に進むだろう――とまで言ったものだ。彼の蹴る逆サイドへの早い、長いパスが効果ありと考えたからだった。
 98年、2002年と2度大会を踏み、ヨーロッパのトップレベルでますます腕を磨いた彼だが、そのプレーの基礎は大きく変わってはいない。それは久しぶりに顔を合わせ、連係が十分とは言いがたい仲間との間でも発揮された。


中田英寿の強いパス

 日本側の1点目は、33分、高原直泰の左足のシュート。稲本潤一が中田英からパスを受け、左足でシュートしたのが相手DFに当り、そのリバウンドを高原が二人の相手より先に左足で蹴ったもの。高原の殊勲だが、その前段の稲本のシュートを生むパスは中田英からの強いボール。ボールそのものが速いために受けた稲本はノーマークの時間があってシュートへ持ってゆけたのだった。
 後半3分の2点目は中村俊輔のFKから日本の3人がボールのコースに入り、2人目の柳沢敦がヘディング。日本代表の得意の攻めだが、このFKの原因は高原が相手のファウルで倒されたもの。その高原が受けたパスは中田英からの早いクサビのパスだった。
 パスの方向が正確なことが重要だが、ボールの速さ(強弱)も大切な要素である。FWが相手の密着マークをはずして受けるとき、もし遅いボールであれば、相手に接近の時間を与えて、せっかく作った余裕が消えてしまう。
 左から右へとボールを動かし、フィールドを大きく使う展開でも、このボールが速ければ、オープンスペースで受けた者は相手が詰めてくるまで余裕があるが、パスが遅ければそうはゆかない。


エイトマンに学ぶ原点

「左前へ出て、征勝さんから15メートルほどのパスを受けたとき、強いボールが来たので、もっとゆるい(遅い)ボールにして欲しいといったら、“これくらいのボールを受けないとダメだよ”と言われた」とはストライカー釜本邦茂(日本サッカー協会副会長)がまだ若かった頃の思い出である。仲間たちにも「もっと速いボールをよこせ」と要求することで、彼のゴール数が積み重ねられるのだが……。
 日本サッカーで、いつの頃からか、蹴ることの重要さが薄められた。日本代表のキック力が劣ると感じた岡田武史監督は2002年ワールドカップの観戦記を「蹴球日記」と名づけたこともある。
 FKの名手たちが現れはじめてから、キックへの興味が高まってきたけれど、Jの選手たちを見るとキックの練習が十分であるとは思えない。そうした現在だからこそ、宮本征勝への回想はプロの中のプロ、中田英寿と重なったのかもしれない。
 日立一高、早大、古河電工でプレーを続け、日本代表として2度のオリンピックを経験した宮本征勝は、選手生活を終えたあと早大の監督として学生を指導した後、1983年から6年間、本田技研の監督を務める。
 学生チームの監督であっても、企業チームの監督であっても、選手をしっかり指導するだけでなく、自らを鍛えるという姿勢は変わることはない。それは選手時代、欧州のプレーヤーとの体格差を補うために始めた筋力トレーニングが習性のようになっていたからでもある。1992年鹿島アントラーズの監督となり、93年のJリーグ開幕の年にはファーストステージに勝ち、Jリーグ最初の優勝監督となった。
 アマチュア選手時代にプロフェッショナルと呼ばれた男は、ひたむきにプレーし、ひたむきに監督として働き、プロフェッショナルの中のプロフェッショナルとなった。


(週刊サッカーマガジン 2005年9月27日号)

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