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第39回 ゲルト・ミュラー(2)少年期から試合を重ね、ゴールを奪う意欲を燃やし続けて70年W杯得点王

子どものときからCF

 ゲルト・ミュラーが生まれたのは1945年11月3日だから、あの第2次世界大戦が終わった年、ドイツの大都市はほとんど廃墟と化したときだった。遊びの種類は少なく、男の子はまずサッカーだった。
 6歳からサッカーを始めたミュラー少年は、子ども仲間の中でゴールスコアで目立つようになる。11歳のときにはTSVノルトリンゲンというローカル・クラブのジュニアチームのセンターフォワードになっていた。この町の北40キロに、ニュルンベルク市があり、そこの1FCニュルンベルクというクラブにいたマックス・モルロック(1924−1994)――あの1954年ワールドカップ優勝メンバー――がいて、ミュラー少年の憧れの的だった。
 その頃の彼は、ひたすら試合をして、ひたすらゴールすることに熱中したと後に語っている。土曜日の午前にユースのBで試合をし、午後にはユースのAでプレーしたりもした。その評判に目をつけたのは、すぐ近くの1FCではなく、南東128キロの大都市ミュンヘンの「1860」と「バイエルン」。この2チームが競り合ってバイエルンが彼を手に入れる。


ブンデスリーガ2年目で得点王

 すでに西ドイツではプロフェッショナルの全国リーグ(ブンデスリーガ)が1963−64シーズンから始まっていたが、バイエルンはまだ地域リーグ(レギオナルリーが)の南部に属していた。
 ズラトコ・チャイコフスキー(1923−98)、“チック”の愛称で呼ばれていたユーゴ人の監督は、ベッケンバウアーと、ゲルト・ミュラーたち若手に期待をかけた。
 64−65シーズンにバイエルンは南部地区で優勝して65−66シーズンから晴れてブンデスリーガに入る。
 新加入ながら若い力の活躍でチームは3位となりドイツカップに優勝。ミュラーはリーグの全34試合のうち33試合に出場して15得点を挙げた。
 次のシーズンにミュラーは28得点でリーグの得点王となり、フットボーラー・オブ・ザ・イヤー(年間最優秀選手)に選ばれる。
 ここから彼の、不滅の記録が次々に作られ、バイエルン・ミュンヘンは68−69シーズンに優勝していよいよ70年代の黄金期に入る。そして、24歳の働き盛りのゲルト・ミュラーには初めての大舞台、ワールドカップが待っていた。


ウーベ・ゼーラーとともに

 1966年のイングランド大会、ウエンブリーでの決勝で、延長の末開催国に惜しくも敗れた西ドイツは、70年メキシコ大会に期待をかけていた。そのヨーロッパ第7組の予選は、スコットランド、オーストリア、キプロスを相手に5勝1分けで突破した。ミュラーは難敵スコットランドとのアウェー(1−1)で貴重な1ゴール、ホーム(3−2)での決勝ゴールをはじめとする10得点(6試合)を自らの記録に加えた。
 シェーン監督が頭を悩ませたのは、2人のFWのミュラーとゼーラーの組合せだった。ウーベ・ゼーラーは何といっても国民的大スターであり、サポーターたちの“ウーベ”の歓声は、そのまま西ドイツ代表への呼びかけであった。
 ストライカーとして得点への意欲の強さは誰にも負けない2人だったが、ウーベ・ゼーラーはミュラーの上り坂の勢いを考えて、彼をセンターフォワードに置き、自分は前後左右に動いてチャンスメークや2番目の動きをしようと考えて、2人でその効果を工夫した。


イングランドに止めの一発

 5月21日〜6月21日まで、メキシコの高地と暑さの中で行なわれた16チームによる70年大会は、ベレとカルロス・アウベルトたちのブラジルの3度目の優勝で終わった。最も高い技術を持つ攻撃的チームの勝利と言われたが、そのブラジルと戦わせたかったチームは3位の西ドイツというのが多くの声だった。西ドイツの攻撃力が素晴らしかったからである。
 レオンでの1次リーグ4組で、西ドイツはモロッコ(2−1)ブルガリア(5−2)ペルー(3−2)を相手に3勝。ミュラーは7得点、ゼーラーは1得点を挙げた。歴史に残る準々決勝、対イングランドで0−2とリードされた後、ベッケンバウアーのドリブルシュートとゼーラーの魔法のようなバックワードヘッドで同点として、延長に入ってミュラーが決勝点を挙げた。グラボウスキーのクロスをレールがヘディングで折り返した。その落下点へ走ってジャンプボレーを決めたが、まさに彼の予知能力が表れたゴールだった。
 準決勝のイタリア戦も延長となり、ミュラーは2得点したが、結局3−4で敗れた。ベッケンバウアーが反則で倒された肩を脱臼し(試合を続けた)たのも響いた。ゲルト・ミュラーは、10ゴールを記録して得点王となった。
 天性の予知能力と、自在に反転する体と、右足、左足、ヘディング、体のどこでもゴールに結びつける意欲も持つ、太っちょの少年が世界一のストライカーになった。


(週刊サッカーマガジン 2005年10月11日号)

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