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サッカー 故里の旅 第1回 開会式の感動に2002年の共同開催を思う

フットボール・カムズ・ホーム

 ウエンブリーは明るさと華やかさでいっぱいだった。
 96年6月8日、土曜日、午後1時30分に始まったEURO96の開幕セレモニーは、手際よく、簡潔に、「フットボール・カムズ・ホーム(サッカー、故里に帰る)」のテーマに従って進行していた。
 サッカーのルールを統一するためにFAが創立された1863年、そのころのパブリック・スクールの試合や、最初のインターナショナル・マッチ、イングランド対スコットランドの試合が当時のスタイルで紹介され、そのあと、スタンレー・マシューズを始め、6人のイングランドの伝説的名選手が登場した。
 参加国の国旗を持つ16人がパラシュート降下でフィールドに降り立つ。各国ユニフォームを着用した子どもたちの16チームが、その国旗を持って集まり、2人の赤いユニフォームの少年が優勝カップを返還した。前回のチャンピオン、デンマークの功労者、GKシュマイケルとFWブライアン・ラウドルップの息子たち。9歳のカスペルと7歳のニコライだった。FAの会長のケント公の開会宣言があり、4万個の風船が舞い上がっていった。中世の騎士のドラゴン退治から、ジェット機編隊レッドアローの低超空飛行と古さと新しさ、過去と現代を織り込みながらクライマックスの主役は未来を担う子どもたちであったところが演出の狙いなのかもしれない。
 2002年の開会式はどうするのかな――。緊張感から解放された記者席で、私は6年後の近い未来と、その未来を生んだ5月31日を思い出していた。


旅の始まりはチューリヒから

 欧州選手権の前にチューリヒへ足をのばし、ワールドカップ(W杯)の日本開催の決まる歴史的瞬間に立ち会いたい――あわせて健さん(長沼JFA会長)や俊さん(岡野招致委員実行委員長)におめでとうを言いたい――と、計画した。
 4年間の招致活動を試合に例えるなら、前半に0−2でリードされ、後半に巻き返して3−2、あるいは4−3でリードしたという感触だった。
 しかし、そのリードの楽観は共同開催案の雲に覆われる。
 もともと韓国側から出たものだが、その共同開催暗にUEFA(欧州サッカー連盟)が同調し、韓国よりもUEFAが主導権を握り、ルールどおりの単独開催を主張するアベランジェ会長に対抗しようとした。


英国紙の伝える情勢変化

 5月30日午後11時40分関空発のJAL421便の機内で見た28日付のタイムスは、ヨハンソン側有利としていた。ロンドンについて30日付の新聞、アベランジェ会長が決定的に不利なことを知る。彼の単独開催案に従う日本もまた同じ状態とあった。UEFAは、アフリカ、アジアの各連盟の賛同を得て共同開催案を理事会に出すのだという。
 31日、ロンドンからチューリヒに飛んだとき、デイリー・テレグラフの見出しは「HOUSE OF HAVELANGE ON VERGE OF COLLAPSE」(破滅の淵に立つ会長の家)だった。
 到着したときに、すでにFIFA理事会で共同開催を決めたという発表が終わっていた。情勢不利と見た会長が自ら共同開催案を理事会に提案し、理事会はこの会長案を全会一致で決定したという。
 表面上の会長の面目は保たれた。その発表の席上、韓国の鄭(夢準)会長の笑顔と日本の長沼会長のニガイ顔が、それぞれの心を表していた。


日本全体の実力

 今度の4年間の招致の結果は、日本サッカーの実力どおりだったろう。メディアを含めての情報不足もあったろうし、4年前に招致を決めたときにサッカー界挙げての体制をとれなかったのも痛かった。
 二国開催は多くの問題を残しはするが、いまはこの二国開催の問題点を取り上げたり、結末についての当事者の責任を云々するよりも、日韓関係を見つめ直す最良の機会が与えられたと思いたい。
 日韓の関係をより良くしていくためには、何から始めればいいか、日本はいつまでも統治時代の悪政に口をつぐんだままなのか、韓国はまだまだ子どもたちに恨みを伝え残すつもりなのか、反日感情という火種を教育の中に組み込むのか。
 隣国で、しかも古くから文化交流のあった韓国の言葉、ハングルをどうして日本の学校の教科に入れないのか、古代史ブームの日本で古い朝鮮語がどれほど解明に役立つかもしれないのに――政治家はこうした点の政策を推し進めるべきだろう。
 幸いなことにインターネットという新しい情報交換の場で、日本語でもなくハングルでもなく英語という第三の言葉で両国の若者が意見を述べ、議論し、知識をやり取りする機会が増えている。
 若い世代の交流が増えれば、対抗意識の激しい日韓サッカーも試合のあとに友情が生まれるハズだ。
 FAが誕生してサッカーが世界に広まった133年間に欧州は二度の大戦を経験したが、そのときもこの意識は消えなかった。第一次大戦のソンムの塹壕戦で、クリスマスを祝って英軍とドイツ軍が中間地帯でサッカーの試合をしたエピソードは、この競技がすでに国境を越えたものになっていたことを示している。
 2002年の共同開催は、サッカーにも日韓両国にも大きな実験になるだろう。子どもたちのためにそれを成功させるのが大人の仕事、20世紀に生きたものの21世紀への贈り物だ。
 6年後への私の夢は、イングランドとスイスの両チームの入場で中断された。そのマーチはベートーベンの第九交響曲の歓喜の章だった。


(サッカーマガジン掲載)

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