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サッカー 故里の旅 第4回 闘将フォクツがつくったひたむきな新チャンピオン

 後方から長いパスがきた。ヘディングの競り合いでビアホフの頭が少し上だった。その頭にボールが触れてバックワードへ、右に併走していたクリンスマンの後方に落ちた。戻ってボールを処理するクリンスマンはエリア内、チェコのGKもDFも、ゴールへの直接の脅威を感じただろう。一瞬、皆がクリンスマンを見つめる。彼は、ボールをゆっくりキープして左足でふわりと浮くパスをゴール正面へ。
 ボールが落ちるところにビアホフがいた。ゴールと彼をマークするラダを背にし、ボールを小さく動かしながら方向を変え、左足を大きく振った。リーチのあるこの反転シュートにラダの足はタックルできず、ボールは、GKコウバが両手を出したが収まらず、ぽとりと落ちて、ゆっくりゴール内に転がった。
 ゴールデン・ゴール。延長に入ってからは、先に得点した方が勝ちで、試合の残り時間は打ち切られる。
 Jリーグで私たちに馴染んでいるゴールデン・ゴールが、初めてウエンブリー競技場72年の歴史の中に記録されることになった。
 ばったりと倒れ地面に伏せてしまうチェコの選手、抱き合うドイツ側――。その中でザマーが第1線審が旗を揚げているのに気付き、レフェリーに知らせた。線審と協議したパイレット主審は、線審の意見(クンツがオフサイドの位置にいた)に手を横に振った。それを確認したザマーは仲間の方へ走り、フォクツ監督と抱き合った。
 96年6月30日、EURO96の劇的なフィナーレだった。その光景を見ながら、フォクツの喜びを思った。


74年のクライフ封じ

 1966年がイングランドの誇りなら、74年のW杯優勝チームは西ドイツの伝説。リベロのフランツ・ベッケンバウアーを主将に、“左足の芸術家”オベラーツや“爆撃機”ゲルト・ミュラーなどの名選手ぞろい。小柄なベルティ・フォクツはDFで、相手のキープレーヤーを封じるマークマン、鋭いタックルは定評があった。
 オランダとの決勝で相手の主将、ヨハン・クライフをマークして、その天才的なプレーを半減したのは今なお忘れられない。クライフへのタックルで彼にイエローが示された直後、スタンドから沸き上がった「ベールティ」の大合唱――。その声の大きさは、ベルティ・フォクツへのサポーターの信頼の証(あかし)だった。

 唯一のクラブだったボルシア・メンヘングラッドバッハからも、代表からも引退した彼は、ドイツFAの若年層のコーチとなり、1986年と90年の2回のW杯でベッケンバウアー監督を助け、2位と優勝を勝ち取った。そして90年夏からベッケンバウアーの後を継いでドイツ代表の監督となった。
 以来6年間、92年の欧州選手権はデンマークに敗れて準優勝、94年W杯はブルガリアに負けてベスト4にも入れなかったが、今度、初めて欧州のタイトルを握った。
 彼のモットーは「サッカーはチームゲーム、代表チームもチームワーク第一」と、常に全員の努力を強調してきた。今度の代表は、彼の選手時代のように、勝とうとする意志が強く、それぞれの個性がひとつにまとまっていた。その基礎の上にリベロのザマーの安定成長があった。ストライカーのクリンスマンが途中で欠場するほどの負傷をし、ヘルマーは試合のない日は練習を休むといった状態のチームがタイトルを握ったのも、全員のチームへの忠誠心だった。
 個性を生かす選手起用も見事だった。対チェコ戦のファイナルは、59分(後半14分)にPKで1点をリードされた後、23分にショルをビアホフに代えた。メラーのいない中盤をショルがドリブル突破で開拓しようとしていたが、相手との力関係を見て、長身、頑丈なビアホフを投入してクリンスマンとの2人による空中戦からの打開を図った。73分(後半28分)に生まれたFKからのビアホフのヘディングによる同点ゴールは、その狙いの成功であり、ゴールデン・ゴールもまたビアホフの大きさと強さが生きた得点だった。
 ツィーゲのように左サイドから攻め上がってシュートまで持ち込める(対チェコ第1戦で得点)かつてのブライトナーのようなサイドFBが生まれたことも、今後に明るい材料だ。


選手補充問題でもフェアを貫く

 決勝の直前になってドイツ・サッカー協会は、故障者3人、イエロー2枚が2人という状態で、戦力が不十分として、特例で2人の選手の追加登録をUEFAに申し入れ。UEFAがOKを出してメディアの非難を浴びた。
 ベテランのブライアン・グランビル記者は「このUEFAの決定はこの大会の値打ちを下げるだけでなく、不名誉な前例として残ることになる。UEFAが、こうしたドイツの申し入れを受け入れることはスキャンダラスな決定だ」といった。
 これに対してフォクツは――。
 本国から補充したのは2人でなく1人だけ、それは無名に近い選手で結局、試合に出場しなかった。
 より良い条件で面白い試合をすることがサポーターを喜ばせることになる――と考える協会首脳とは別に、フォクツはスポーツはもともとルールや大会運営規則に従って戦うものと、フェアプレー精神を貫いたのだった。
 こうした態度はメディアにもファンにも好感を与え“大国”ドイツに対するイングランドのサッカーファンの感情を和らげた。決勝の日――会場全体が“サッカー戦争”でなく“楽しいサッカー祭り”の雰囲気になったのは、演出にもよるが、フォクツと彼のイレブンのおかげだったかもしれない。


(サッカーマガジン掲載)

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