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パリ・オリンピックの刺激

英国人によってもたらされ、彼らによって組織化された協会やリーグが市民に根をおろすことによって、アルゼンチンのものとなり、イタリア気質が大量に移住してくることによって、スペイン、イタリア系を主力に、英国人、ドイツ人、フランス人、その他、多種多様の民族を交えながら、アルゼンチンのサッカーは、独自のスタイルをつくっていった。そして、ウルグアイとの対抗戦、さらには、好敵手ブラジル、チリ、パラグアイなどとの交流を通して腕を上げていくのだが、こうして高まったラプラタ・サッカーの勢力を世界に示したのが1924年、パリ・オリンピックでのウルグアイの優勝だった。
まだ、飛行機の発達していない当時、大西洋を渡り、赤道を超えて、チームをヨーロッパへ派遣するのは大事業だったが、1923年のコパ・アメリカの前に、ウルグアイ協会は代表チームに「優勝すればパリ・オリンピックに参加」を約束し、チームは南米チャンピオンとなって翌年パリに乗り込み、堂々と優勝した。第一次世界大戦(1914年〜1918年)のときにヨーロッパへ農産物を送り、リッチになったアル ゼンチンは、パリ・オリンピックに80人近い選手団を送り、唯一ポロ競技で優勝して「南米からやってきた二つの驚き、ウルグアイのサッカー、アルゼンチンのポロ」と欧州の評判にはなったが、チームを送らなかったサッカー人にとっては、ウルグアイに先を越されたといった気分が強かった。
(サッカーダイジェスト1989年1月号より)

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