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自らは優れたランナー。体協の筆頭理事で募金活動に腕を振るったJFA初代会長 今村次吉

 今年、2008年は1921年(大正10年)の大日本蹴球協会(現・日本サッカー協会=JFA)設立から88年目、いわば米寿にあたる。
 今回の『このくに と サッカー』は、その米寿のお祝いを兼ねて、JFA初代会長、今村次吉(いまむら・じきち)さんをたずねることにした。


小学生のころ坪井玄道に習う

 1881年(明治14年)――西郷隆盛の西南戦争が終わり、明治政府の政策がどんどん進められるようになったころ、今村次吉さんは生まれた。
 父親の有隣(ゆうりん、1844〜1924年)はフランス語学者として有名で、教育者でもあった。フランス政府から勲章を受けていて、第一高等学校の校長も務めた。
 次吉少年は東京高等師範付属小学校を経て、高師付属中学を卒業(6回生)第一高等学校(一高)を経て、東大に進んでいる。
 新田純興さんの記述によると、「自分がまだ東大の学生のときにJFAの創設や全国競技大会の開設の際に今村さんに会い、小、中、高、大学の先輩であることを知った。また、会長は小学校の高等科のときに、坪井玄道からフットボールの手ほどきを受けたと聞いた」とある。
 ついでながら、次吉の兄、新吉(1874〜1946年)は精神医学者で、京都大学教授を務めた日本の精神病理学のパイオニアであったという。
 フランス語の父、精神病理学の兄という当時としては新しいものに目を向けた今村家の気風は次吉さんにもあって、それで日本のスポーツ界で単一の競技団体として一番早く誕生することになった大日本蹴球協会の初代会長を引き受けることになったのかもしれない。


一高、東大でランニング

 もっとも、フットボールは今村さんが一高に入ったころは、まだ学生のスポーツとして普及しておらず、野球と運動会(競争)が人気があった。
 今でいう陸上競技――つまり“遊びで走る”ことの起こりは、サッカーと同じく築地の海軍兵学寮(海軍兵学校)へ指導に来ていた英国軍人たちによって紹介されたのだが、単純に走って、どちらが勝つかというランニングの方がサッカーよりも一足早く、学生たちの間に普及した。
 東大では1886年(明治19年)から運動会が学校内の運動場で行なわれ、短距離や跳躍、投てきなどの各種目が行なわれていた。
 生まれつき走るのが早かったのか、今村さんもランニングに熱中し始める。そして1899年5月13日に上野・不忍池で行なわれた一高の学内、周回レースに優勝して、有名人となった(コラム参照)。
 東大に進むと1900年(明治33年)には学内の運動会の3種目に優勝、在学中は運動会の花形であったらしい。
 東大を卒業して、大蔵省書記官となる。
 のちにロシア駐在財務官にもなるが、大蔵省での仕事がスポーツ人としてのオリンピック支援に結びつくことになったようだ。
 1904、05年の日露戦争で大国ロシアを制した日本は、多くの問題を抱えながらも国民の間の士気は上がり、“一等国”の自負が高まる。
 柔道の講道館館長であり、東京高師の校長でもあった嘉納治五郎の下にフランスのクーベルタンからオリンピックへの招待が届いたのが1909年。スポーツ興隆を念頭として、高師の学内に運動会(運動部)を置いて奨励していた嘉納は、1912年のストックホルム・オリンピック参加を目指して、まず1911年7月に大日本体育協会(現・日本体育協会)を設立し、11月に体協主催の初のオリンピック予選を行なった。
 東大でランナーとして活躍し、自ら陸上競技の規則書も作った今村さんは、当然、予選会開催に働いた。


体協理事として募金の中心に

 初代の体協会長でもあり、国際オリンピック委員会委員でもあった嘉納治五郎氏の下で、このあと、今村さんは体協理事を務める。
 ストックホルム大会ではマラソンの金栗四三(かなぐり・しそう)も短距離の三島弥彦(みしま・やひこ)も、初参加の重圧で成績はさっぱりだったが、国内のスポーツ熱は一気に高まった。
 ただし第一次世界大戦(1914〜18年)で、オリンピックは中断されてしまう。その間にアジアではフィリピンの提唱で中華民国と日本の三国による極東オリンピック(第2回から極東大会)という総合競技大会が開催されるようになる。
 この第3回大会が日本で開催され、日本サッカーにとって初の国際舞台となったことは、すでにこの連載でも再三紹介している。実はこの極東大会には体協の嘉納治五郎会長自身は経費がかかることで、始めは乗り気でなかったが、帝国ホテルの林愛作総支配人と三越呉服店(現・三越)の朝吹常吉専務のはからいで財界の協力を得て開催費が集まり、日本での大会の成功を見たのだった。
 このとき今村さんの名は出ていないが、第一次世界大戦後のロシアは革命によって財務状態が悪化、財務官としての仕事が忙しくて、こちらの方に関わることはできなかったのだろう。


会長就任から10年でアジアのトップに

 財界の協力で極東大会の開催や、選手派遣のメドも立つことを知った嘉納会長は、この大会参加にも積極的になる。これが日本サッカーへの大きな刺激となった。
 大戦後、アントワープ大会で復活したオリンピックに、日本から選手団を送る。その派遣費集めの体協の中心が今村さんだった。同時に体協は1921年(大正10年)の第5回極東大会(上海)に選手団を派遣する。サッカーも初めて海外での国際試合を経験した。
 極東大会の初参加が引き金となって、関東、名古屋、関西各地で1918年にサッカー大会が始まり、英国大使館を通じてFA(イングランドのフットボール協会)から銀のカップが日本に届き、これがきっかけで日本サッカーを統括する組織を作ることになった。
 中心となって働く人は高師の内野台嶺教授をはじめ、人材はそろっていた。ただし会長はなかなか決まらなかった。スポーツに理解のある名士の承認は得られなかったが、最終的に今村次吉さんがOKした。体協の筆頭理事であった今村さんの就任に、体協から1000円が寄付され、JFAの当座の資金となった。
 ランナーとして活躍し、競技のルールブックを作ったこともあり、アスリートでオリンピックや極東大会での資金集めに能力を発揮し、財界とのつなぎ役でもあった今村さんに、小学生のころのフットボールが蘇ったかどうかは定かではないが、この人の会長就任によって、野津謙(1899〜1980年)新田純興(1897〜1984年)鈴木重義(1902〜72年)といった当時の若手の推進力が存分に働けるようになる。これが10年後の1930年の第9回極東大会(東京)での好成績となり、さらに1936年のベルリン・オリンピックの逆転劇を生む素地を作ることになった――と私は考えている。
 立派なひげをつけた精悍で落ち着いた風貌のフォトを見ながら、いい人がいいときに会長になって下さったと改めて思う。


今村次吉(いまむら・じきち)略歴

1881年(明治14年)3月、東京生まれ。父・有隣(ゆうりん・1844〜1924)はフランス語学者で教育者。
1888年(明治21年)東京高等師範付属小学校に入学。在学中に坪井玄道からフットボールの手ほどきを受ける。
1897年(明治30年)東京高師付属中学校を卒業(6回生)。第一高等学校に入学。
1899年(明治32年)5月13日、上野・不忍池周回レースで木下東作と接戦の末に優勝。
1900年(明治33年)東京帝国大へ進学。
           11月の運動会で200、400、1000mの3種目に優勝、明治35年11月の運動会200mにも優勝した記録がある
1904年(明治37年)東大法科卒業。大蔵省書記官に。
1911年(明治44年)7月、大日本体育協会設立。会長・嘉納治五郎。
           11月、ストックホルム・オリンピック選考協議会でスターターを務める。
1912年(明治45年)第5回オリンピック・ストックホルム大会に、日本から嘉納治五郎団長、大森兵蔵役員、陸上短距離の三島弥彦、マラソンの金栗四三が初参加。日本のスポーツ界に大きな刺激を与えた。
1913年(大正2年)体協の規約改正で総務理事(7人)のうちの一人に。
           11月、体協主催の第1回陸上競技大会開催。この競技規則は今村が編集し、全国の予選会に適用したという
1915年(大正4年)体協の規約改正で会長推薦理事(9人)の一人に。
1917年(大正6年)第3回極東大会を東京・芝浦で開催。開催の寄付集めに尽力。
1919年(大正8年)ロシア駐在財務官としてハルピン会議に出席
1920年(大正9年)第7回オリンピック・アントワープ大会への日本代表派遣費用・募金にあたり、体協の中心として働く。
1921年(大正10年)大日本蹴球協会(JFA)創立、初代会長に就任。名誉会長、徳川家達、英国大使・エリオット。
1925年(大正14年)大日本陸上競技連盟(現・日本陸上競技連盟)創立、今村は顧問に就任。
1929年(昭和4年)JFAの規約変更、会長・今村次吉の下に常務理事・鈴木重義、理事8人、支部理事8人を置いて、運営の効率化を図る。
1930年(昭和5年)5月、東京・明治神宮競技場での第9回極東大会で日本はフィリピンに勝ち、中華民国と引き分け、中華民国とともに1位に。
1932年(昭和7年)オリンピック・ロサンゼルス大会ではサッカーは開催されず。日本選手団顧問兼レスリング総監督(体協監事、オリンピック後援会副会長)として選手団に同行。
1933年(昭和8年)JFA会長を辞任。
1943年(昭和18年)4月17日没。64歳。戒名・清徳院直心正道居士。


★SOCCER COLUMN

不忍池のビッグレース
 1896年(明治29年)の第1回オリンピックでマラソンが行なわれ、その話が世界各国に伝わったが、日本で長距離を走った最初は、1899年2月の山口高等学校の11.5マイル(約18.50キロ)が最初とされている。
 この山口高校の話を聞いた第一高等学校では、この年の5月13日に不忍池13周競争を計画した。池は1周約1マイル弱で合計20.92キロだったとされている。参加した一高生は38人。完走者は10人だったという。
 オリンピック史の権威、鈴木良徳さん(1902〜91年)の『オリンピック外史』(ベースボールマガジン社刊)によると――「一高運動会の常勝木下東作が、今村次吉と大激戦の末に敗れた。その記録は、1時間35分49秒。そのとき今村は朴歯(ほうば)の下駄でスタートし、途中で裸足になったという物語がある。今村は破帽弊衣(はぼうへいい)の一高スタイルの見本みたいな性格で、それに対して木下は、アメリカのスパルディングのスポーツ書によって、科学的走法を研究していた」と記されている。
 下駄で走ったかどうかは明らかではないが、東大へ入ってからの記録を見ても、このときの激戦の勝利は実力であったらしい。
『日本陸上競技史』(山本邦夫著、道和書院刊)によると、1900年の東大運動会の200メートル、400メートル、1000メートルに今村さんが優勝、タイムは12秒2、28秒2、2分20秒6と記されている。
 山高帽にフロックコートを着て、スターターを務めた。あるいは、いまの「ヨーイ!ドン(号砲)」の合図も、この人の案というエピソードもあるが、真偽は定かではない。


(月刊グラン2008年3月号 No.168)

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