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サッカー 故里の旅 第7回 大金星だけで終わらないで。アトランタ、東京、ベルリン、30周年期の五輪

 ブラジルに勝ち、ナイジェリアに敗れ――。アトランタでの日本代表の戦いは、まことに、歓喜と悲痛の交錯。テレビ画面で、彼らの激闘を見ながら声援を送る日々だ。
 大金星に沸いた次の日、学校のOB大会で見通しを聞かれる。
「今度のチームはメダルを狙ってほしいと思っていた。彼らには、それくらいの力はある。サッカーの試合では、ブラジル戦で見られたように、少しぐらい力量に差があっても、その差を縮め、弱いものが強いチームを倒すこともできる。それがあればこそ試合は面白い。ただし初戦の勝利へのメディアの喜びぶりはいささか常識外、ブラジルからの1勝であっても、リーグの勝点計算ではどのチームも同じことだ。
 ナイジェリア戦の勝敗予想となれば、やはり全力を出して疲れの残るハズの日本には苦しいゲーム。ナイジェリアの個人的な力に守りが崩される可能性はある。一方、攻撃はブラジル戦でもほとんど不発、前園が守りに力を割いてとてもいい組み立てができるまでにはなっていなかった。
 前園は、相手の意表をつくスルーパスをDFラインの中央部で通すのが得意で、調子のいいときは、このパスはまことに天下一品。ただし、疲れてタイミングやパスの精度が落ちると、せまいスペースでの仕事だけに失敗も増える。だからナイジェリア戦でも攻撃がうまくいかなければ勝つのは難しい。
 したがって第3戦の対ハンガリーで、どれだけ得点するか、彼らが攻撃にどれほど工夫を凝らすかが、キーポイントになるだろう」などと答えたのだったが……。
 この歴史に残るブラジル戦の快挙は、私には1936年のベルリン大会での対スウェーデン逆転勝ち、64年、東京大会での対アルゼンチン、あのシーソーゲームからの3−2の勝利などと思いをダブらせる。
 60年前のベルリン大会は、日本サッカーにはエポックメークな大会だった。初めての本場欧州への遠征(シベリア鉄道による2週間の旅)というハンディにもかかわらず、0−2とリードされたのを逆転した会心の勝利。スウェーデンは1924年のパリ・オリンピックで3位になったほか、34年イタリアW杯では1回戦でアルゼンチンを破ってベスト8に入るなどの実績があり、ベルリンでも優勝候補にあげられていた。
 日本代表は早稲田大学のメンバーを中心に編成されたが、もちろん欧州では全く無名。「日本では試合のときに靴を履くのか」と聞いた記者もあったという。ドイツに到着してからクラブなどとの練習試合でも勝つことができず、スウェーデン楽勝の予想も当然のように受け取られていた。しかもそのスウェーデンが2−0とリードしたから、ほとんどがスウェーデンのワンサイドになると思ったに違いない。しかし、日本は前半終了までに1ゴールを返し、後半になると2−2の同点とする。
 スウェーデンに焦りが出はじめ、総攻撃で一気にゴールを奪おうとするが日本はそれに耐え、俊足・松永が3点目を挙げて大逆転劇を生んだのだった。シュートの名人といわれた川本泰三(CF)は“どこかで1点入ればガタガタと倒れてしまうような試合だった”と語ったが、チャンスにシュートを決めるストライカーを持ったこともベルリンの奇跡の要因のひとつだったろう。
 この時代の選手は自分たちで外国の書物を読んで、戦術や技術を研究し、自分独自のスタイルを作り上げようとした。教えられたのでなく、自分の工夫でプレーを開拓した。そうした努力の積み重ねが、ヨーロッパでの練習試合の経験を吸収し、桧舞台で当時の新しい3FBシステムを消化して守りに取り入れ成功したのだった。
 スウェーデン戦から2日後、準々決勝でイタリアと対戦し0−8で大敗した。全力を費やした疲れはとれなかったという。イタリアは34年W杯の優勝国であり、このオリンピックでも優勝した。
 KO(ノックアウト)システムの1回戦で敗れたスウェーデンは早々とベルリンを去ったが、ストックホルムのひとつ手前の駅で降りて、出迎えの人たちの非難をかわしたという。
 1964年の東京オリンピックでの対アルゼンチンの逆転劇は、60年のローマ予選で敗れて以来4年間の強化の成果だった。大器・釜本は20歳で桧舞台を踏み、杉山、小城、宮本(輝)川淵、八重樫らとともに戦った。アルゼンチン戦以外は、ガーナに惜敗し、準々決勝でチェコに敗れたため、オリンピックではこの1勝だけだったが、それまで「出ると負け」の時期が続いた後で、サッカー王国アルゼンチンから奪った勝ちは、日本サッカーの大きな光となって、翌年からの日本サッカーリーグのスタート、少年サッカースクールの開校など、普及と強化に向かう事業の追い風となった。そしてまた長沼監督、岡野コーチの体制はしばらく続き、クラマーとともに68年の栄光を目指すことになった。
 60年前と32年前の2つの金星は、それぞれ喜びの1勝に終わったが、1940年の幻の東京オリンピックがあったなら、36年の“奇跡”はもっと40年にふくらんだハズだ。
 68年の銅メダル獲得を見れば、このときのチームは、アマチュアであってもひとつのチームとしての合同練習の期間はプロも及ばぬ長期であり、グループリーグのこなし方も、ナイジェリアに勝ち、ブラジルと分け、スペインとも引き分けるなど計算の上に立っていた。
 若さという点では36年のベルリンの主力は23〜24歳、64年もほぼ同じ。この2回は金星1勝の喜びで終わってしまった。まさにアマチュアそのもの。今度の代表は年齢は同じで若いがすでにプロフェッショナルとしての経験もある。金星だけで、ジャイアント・キラーだけで満足するのはアマチュアか二流プロ。Jのプロはメダルにまで届いてほしい。


(サッカーマガジン掲載)

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