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1928年アムステルダム・オリンピック「ウルグアイとの決戦」

1928年、アムステルダム・オリンピックに初めてアルゼンチンがサッカー競技に参加し、KOシステムの大会を1回戦(11対2 アメリカ)、2回戦(6対3 ベルギー)、準決勝(6対3 エジプト)と勝ち進んだ。前回優勝のウルグアイは、一回戦(2対0 オランダ)、2回戦(4対1 ドイツ)、準決勝(3対2イタリア)と勝ちあがり、ラプラタのライバルはオリンピックの桧舞台で金メダルを争った。1928年6月10日、アムステルダム競技場での決勝は、ウルグアイが前半23分にペトローネのゴールでリードしたが、アルゼンチンはフェレイラが後半7分に同点とし、90分を終わって1対1、15分ハーフの延長も勝負つかず再試合となった。6月13日の再戦は、やはり、ウルグアイがリード(フィゲロア、17分)その12分後、アルゼンチンはモンティが同点にしたが、後半20分にスカローネが勝ち越しゴールをあげて、ウルグアイの2連覇となった。両チーム2度の対戦は、南米の高いボールテクニック、変幻自在のドリブル、そして、相手の意表をつく攻めなどが随所に見られ、オランダの観衆は、これまでのヨーロッパの常識を破るプレーの応酬に堪能しエキサイトした。
アルゼンチンは優勝こそ逃したが、ウルグアイ同様に高い評価を受けた。と同時にヨーロッパのトップ・クラブ、ことにイタリアとスペインの金のあるチームにとって、アルゼンチンのプレーヤーを獲得するきっかけともなった。レイモンド・オルティ(リバープレート)もその一人。代表チームの左ウイングで、アムステルダムの対ベルギーのハットトリックなどの巧技をユベントス(イタリア)が目をつけ、大会終了もヨーロッパに留まらせた。オルティはユベントスのFWとしてリーグで活躍するだけでなく、イタリア代表チームにも入って1934年のW杯優勝に貢献した。彼の両親がイタリアからの移民ということから、国籍を移動したのだろうが、アルゼンチン代表16回、イタリア代表35回という記録を持っている。
決勝で1ゴールを決めたルイジト・モンティ(サン・ロレンソ)も、ユベントスだけでなくイタリア代表にもなくてはならぬプレーヤーとなった。センターハーフとしてロングパスがうまく、チームを指揮する能力に優れ、1934年のワールドカップにはイタリア代表のキャプテンを務めたのだった。アルゼンチンの優秀プレーヤーのエクソダス(出国)は、こうして大きな流れとなり始めた。
(サッカーダイジェスト1989年1月号より)

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