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アルフレッド・ディ・ステファーノ

アルゼンチンで生まれ育ったタレントに対する海外の評価は、アルフレッド・ステファーノに至って決定的なものになる。1926年生まれ、カプリ島からアルゼンチンへ移住したイタリア人の血筋で、父親もサッカー・プレーヤーだったアルフレッドは子どもの頃からボールと遊び、リバープレートでプレーする。彼のタフネスさや、試合の読み、シュート能力が開花するのは1953年にレアル・マドリー(スペイン)に移ってから。1956年から1960年までのヨーロッパ・チャンピオンズ・カップ5年連続優勝を成し遂げた。フランスのコパや、ハンガリーのプスカシュ、スペインのヘントなどの名手がラインに加わっていたが、その中心は彼だった。残念ながら、ナマで見るチャンスはなかったけれど、5連勝を達成した対アイントラハト・フランクフルト(西ドイツ)との決勝のテレビ画面から、素晴らしいプレーを見ることができる。背番号9を付け、いわゆる下がり目のCFの位置から味方へのパス、あるいはドリブルによって攻撃を組み立て、ゴールマウスへ走り込んでフィニッシュも決める。ゲームメーカーでありストライカーであり、タフな運動量とボールタッチの技巧は感嘆の他はない。対E・フランクフルトは、7対3というゴールラッシュ。うちプスカッシュが4点、ディ・ステファーノが3点を決めたが、彼の3点目のドリブルシュートは、ワンツーのパスかと見る間に、スルスルと抜け出て、ゴール右下へパーフェクトなシュートを送り込んだのだった。ヒールの使い方がうまく、ヒールキックのパスはもちろん、ヒールキックのゴールシュートも、彼の特技の一つだった。
1967年に引退したが、スペインでのリーグ得点王5回、622試合で合計460点をあげ、生涯の試合数は1127、得点818点だった。1963年にベネズエラの革命分子が、カラカスで彼を誘拐したが、あまりの大物なので、何もしないで解放したという。ディ・ステファーノのように大衆に人気のあるサッカーのスター・プレーヤーを下手に傷つければ、革命軍側にも不利益になるとみたからだという。
(サッカーダイジェスト1989年1月号より)

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