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欧州の王座戦でアルゼンチン人が活躍

レマル・マドリーは、1960年の欧州ナンバーワン対南米ナンバーワン、つまり、今のトヨタカップの前身である世界クラブ・カップにも登場し、ウルグアイのぺニャロールと戦い(当時はホーム・アンド・アウェイ)、モンテビデオでは0対0、ホームへ帰って5対1で勝った。もちろん、彼はこの試合でも1ゴールを記録している。レアルの黄金時代、つまり、ディ・ステファーノの王座は、欧州チャンピオンズ・カップでの61年の1回戦敗退、62年の決勝での敗戦で終わりを告げるが、58年の決勝で延長に持ち込み、レアルを苦しめた(3対2)ACミランにアルゼンチン代表のインナー だったE・グリジョがいた。そういえば、62年の準決勝で、レアルのホームグラウンドでの不敗の神話を砕いたのが、ユベントスの1対0の勝利(第2戦はレアルの3対1)のゴールを決めたアルゼンチン育ちのエンリケ・シボリだった。リバプレーとのストライカーだった彼の移籍料は、1957年の当時では最高の1億5千万円。クラブはこの金をスタジアムの未完成部分の建設にあてたという。シボリは1964年にナポリに去るまで、ユベントスでの200試合に135ゴールを記録した。こうして、ヨーロッパの頂点に立つ舞台でアルゼンチン人が活躍し、イタリアやスペインのリーグでも彼らの仲間がファンを喜ばせた。シボリと同じ時期のアルゼンチン代表チームで、彼とともに“必殺のトリオ”と言われたマシオ、アジェリージョもイタリアへ移っていた。
(サッカーダイジェスト1989年2月号より)

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