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個人の名声は代表チームの不振となって

こうしたトップ級の流出は、アルゼンチン代表チームの力を低下させ、1958年、久しぶりに参加したワールドカップのスウェーデン大会では一次リーグで退いた。1930年の第1回大会(ウルグアイ)に参加した後、34年の第2回(イタリア)、38年の第3回(フランス)に不参加、大戦後の50年(ブラジル)、54年(スイス)にもチームを送らなかったアルゼンチンは、50年大会のブラジル対ウルグアイ戦でマラカナの20万大観衆と、ウルグアイ、ブラジル両国の歓喜と悲嘆のエキサイティングや、54年スイス大会でブラジルとウルグアイが、欧州の“無敵”ハンガリーと大激戦を演じるのを、いつも横目で眺めた後、58年(スウェーデン)は世界に自らの力を問いかける大会だったのに…。
一次リーグ1組で3試合1勝2敗は不満の残る成績だった。まして、隣国ブラジルがガ リンシャや若いペレの活躍で優勝し“サッカー王国”“芸術的サッカー”と世界の賞賛を受けた大会だっただけに、誇り高いアルゼンチン人のフラストレーションはたまるばかりだった。1962年のチリ大会でも、アルゼンチンは一次リーグの第4組でブルガリアに勝ったものの、ハンガリーと引き分け、イングランドに敗れて、この組の3位となって準々決勝へ進めなかった。
南米サッカーで最も歴史が古く、南米の本流と自負としながら、ワールドカップの優勝も開催も経験しないアルゼンチンにとって、1970年の大会誘致はひとつのユメだった。しかし、それも、FIFA総会での投票でメキシコに敗れてしまう。24年前、東京オリンピックのときに行われたFIFA総会で、メキシコの委員や、報道関係者の喜びようとアルゼンチン側の落胆ぶりを実際に取材した私は、彼らのサッカーに対する思いの深さをあらためて知ったのだった。その東京オリンピックで、これも久しぶりのオリンピック・サッカーの参加だったのに日本に敗れ、ガーナに引き分けて一次リーグで敗退したのだから、1964年は彼らには辛い年だったろう。
(サッカーダイジェスト1989年2月号より)

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