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ウェンブリーやモンテビデオの“戦争”

1966年のワールドカップは、サッカーの母国イングランドでの開催。アルゼンチンは十分な自身を持ってイレブンを送り込んだ。62年大会はケガで出場できなかったストライカーのアルティメがベストコンディション。7月13日、バーミンガムでの対スペイン戦はアルティメの2ゴールで勝ち(2対1)、次の西ドイツ戦は0対0の引き分け。7月19日の対スイス戦は彼の1ゴールを含む2対0。
準々決勝は開催国イングランド。前半の終わり近くに主将のラティンが退場処分を受け10人になったのが響いた。クライトライン主審(西ドイツ)の“退場”を不満としてラティンがグラウンドを去らず、試合は8分間中断。アルゼンチンの新聞はこの事件を“ウェンブリーの戦争”と呼ぶなどしばらく空気は険悪となり、南米対欧州の間には、大西洋と同じように深く大きい心のギャップが生じた。
その対立意識は、1967年の世界クラブナンバー1を決めるラシン・アベジャネーダ(アルゼンチン)とセルチック(スコットランド)にあらわれブエノスアイレスの試合では、スタンドからの投石でセルチックの選手が負傷し、1勝1敗のあと、会場を モンテビデオに移してのプレーオフでは、両チーム合わせて6人が“退場”となった。次の年、69年のエスツディアンテス(アルゼンチン)とマンチェスター・ユナイテッド(イングランド)の試合も暴力的となった。
70年代に入って欧州のチャンピオンが南米での試合をボイコットするようになり、東京という第三者地域を会場とするトヨタカップの誕生につながるのだが、いずれにし ても、アルゼンチン側のヨーロッパに対する尖鋭的な感情が、試合を“戦争”に変えたといえる。
(サッカーダイジェスト1989年2月号より)

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