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1978年アルゼンチンW杯「開催を危ぶむ声も吹き飛ばし」

78年大会を迎えるアルゼンチンには、政治的に問題もあった。軍政に反対する急進的なぺロニスタ、そして、それに反対する極右の勢力が、ときに爆弾テロになってあらわれ他。政治犯に対する軍の人権抑圧の疑いがあるとヨーロッパの記者たちは非難し、W杯の開催も返上すべきだとの論調も欧州の新聞にはたびたび掲載された。政治問題だけでなく、スタジアムの大改修や、新設、それにテレビの宇宙中継基地やプレスセンターの通信機器の整備などの準備面を危ぶむ声もあった。
しかし、大会が始まった時、すべての施設、それにすべての機能はみごとに作動していた。ブエノスアイレスに、大会の以前から支局をおいていたY紙の特派員が、開会式のセレモニーが秒刻みの正確さで進んでいった時「この土地で、こんなにキッチリとものごとが進むのか」と驚いていた。
大会の何ヶ月も前から政府はテレビやラジオで、外国からの客は親切にもてなそうと呼びかけ、テロリストたちもワールドカップ大会中は“休戦”にすると宣言した(大会直前に、大統領が出席した軍隊の祝典会場に爆弾がしかけられたが)。
そんな国をあげての支援の中で、アルゼンチン・サッカー協会も、かつてない代表チームの強化体制を敷いた。74年大会の直後にセサル・ルイス・メノッティを監督に任命したのも異例に早いものだった。すでにリーグやナショナル選手権など、国内のトップ級の試合では、フェアプレーを浸透させようと、レフェリーがファウルを厳しく取るようにした。悪質なものには退場処分が適用され、レフェリーに対する不満の表明や、相手への報復行為は、プレーヤーにとって“損”になるだけが常に強調されるようにした。
それまで首都圏だけのリーグだったのに、1967年からはメトロポリタン・リーグの他に、各地域の代表とメトロポリタン・リーグの上位12チームによる全国選手権も導入された。首都ブエノスアイレスに人口の3分の1が集中していること、国土が広大で、大都市間が何百キロも離れていることなどから、全国規模の試合ができなかったのだが、このナショナル選手権に寄って、各地域のチームのレベルアップも予想され、また、プレーヤーの発掘の道も広くなった。
(サッカーダイジェスト1989年2月号より)

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