賀川サッカーライブラリー Home > Stories > >1978年アルゼンチンW杯「街に人があふれ、老若ともに喜び合う」

1978年アルゼンチンW杯「街に人があふれ、老若ともに喜び合う」

16チームが参加して、6月1日に始まった大会の一次リーグで、アルゼンチンは第1組に入って○2対1ハンガリー、○2対1フランス、●0対1イタリア…と2勝1敗でこの組の2位となって二次リーグB組に入り、○2対0ポーランド、△0対0ブラジル、○6対0ペルーでこの組のトップに立ち、決勝でオランダを延長の末3対1で破っただった。
海外への移籍を制限したため、チームの編成に欧州から3人の選手を呼び戻すことにし、国内選手は十分にトレーニングを積んだ。結局、ヨーロッパから加わったのはケンペス一人だけで、そのケンペスがチームメートとみごとな連係ができるようになり、彼の突進力と左足のシュートが生きて優勝の大きな原因となった。第2列から疾走してボールを受け、スピードをゆるめずに相手守備網を突破し、的確なシュートを叩き込む彼は、6ゴールで大会の得点王となった。ボールを持てば攻撃という、積極的なチーム姿勢と、これまでとは違ったフェアでクリーンな試合態度は、スタジアムを埋めるサポーターの共感を呼び、スタンドのすべて、国民のすべてのサポートを受けた。
試合を重ね、勝利が報じられるごとに家々のドアがあき、何万人という人たちが街路 にあふれ出て、喜びの行進をするのだった。首都ブエノスアイレスでは、ヌーベド・フーリオ(7月9日)、つまり広い独立記念日通りの幅いっぱいに、あるいはコリエンテスの繁華街に人の列が続いた。若者が「バモ、バモ、アルヘンティーナ!!(ゆけ、アルゼンチン)」を歌い踊るだけ出なく、小さい子どもの手をひいた若い母親も、おばあさんも、街を歩くのだった。
1930年、第1回ワールドカップで、ウルグアイがアルゼンチンを破って初優勝したとき「モンテビデオの家々から人が飛び出し、通りにあふれた」と当時のヨーロッパの記者たちの見聞記だが、そのモンテビデオ市民の喜びのウズの中で、ラプラタ河を渡る船に乗るため、港までを歩かなければならなかった、かつてのアルゼンチン・サポーターの口惜しさは、48年後に大きな喜びに変わったのだった。
(サッカーダイジェスト1989年2月号より)

↑ このページの先頭に戻る