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バルセロナからナポリへ

1978年のワールドカップ。アルゼンチンはサッカー人、サッカーを愛する全国民が長いあいだ待ち望んでいた大会を開催し、しかも優勝した。この地に住む人たち、サッカーを単なるスポーツ以上のものと考える人たちにとって、このときの優勝は、なにものにも勝るうれしさだったろう。
そうした喜びの渦のなかで、ディエゴ・マラドーナは大会に出場できなかった口惜しさに、じっと堪えていた。
78年のW杯より前の1976年10月20日、アルヘンチノス・ジュニア−ズの1軍に初登場したディエゴ・マラドーナは、すぐにチームの人気者になった。ブエノスアイレス市の郊外外の下町で生まれ、南米の男の子の例にもれず、小さいうちからサッカーで遊び、11最のときには、すでに仲間うちだけでなく、大人たちもディエゴ坊やのプレーに魅きつけられたというから、ボールタッチに神様は特別な才能を与えてくださったらしい。
その素質がアルヘンチノス・ジュニア−ズでどんどん伸び、ナショナル・チーム(代表チーム)にも入って、1977年2月27日、対ハンガリー戦の残り20分間に出場した。16歳4ヶ月は、アルゼンチン代表の最年少の記録となった。
そんな前途洋々の若者も、78年W杯は代表候補として開幕直前まで練習に参加しながら、直前にはずされたのだった。セサル・メノッティ監督の「マラドーナはまだ若い。急いで大舞台に出すより、次のチャンスまで待たせよう」との考えからであった。
しかし、次の年、1979年に彼は世界へデビューする。5月にスイスのベルンで行われたFIFA(国際サッカー連盟)創立75周年記念で、アルゼンチンとオランダが対戦した。78年の殊勳者ケンペスを故障のため欠いたが、彼の不在を感じさせなかったのがマラドーナだった。全世界はこのテレビ放送で、身体の大きいオランダ選手のあいだをすり抜ける小さなディエゴを知った。私も彼を初めてみた。このときの興奮は忘れることはできない。
その年の8月、日本で行われ第2回ワールドユースで、彼はアルゼンチンの優勝に貢献した。間近に彼のボールタッチの精妙さと、高速で相手をかわし、走り抜けながら敵味方の位置を感得して、みごとな中距離パスを送る。
その方向、ボールの高低、強弱の適切さには、ただ感嘆するだけだった。78年のW杯の残していただけに、79年にマラドーナを見た満足は格別だった。
ブエノスアイレスから新聞を取り寄せることにしたのも、1981年1月、ウルグアイでのコパ・デ・オロまで足を伸ばして観戦に出かけたのも、すべて、ディエゴの新鮮な魅力があったからだった。
81年にポカ・ジュニアーズへの移籍。400万ドル(10億円)に6人の交換選手をつけるという破格ぶり。その価格と期待にこたえる活躍だったが、1982年のスペインW杯では、マラドーナは全く不本意なプレーと成績に終わってしまう。一つには、フォークランド紛争でアルゼンチン全体がおかしくなり、チームもまた士気の上で影響されたこと、一つには、マラドーナ自身がバルセロナ(スペイン)への高額の移籍で騒がれ落ち着かなかったこと、さらには、78年の優勝メンバーの中にいて、技術的には先輩を凌ぐディエゴの思い通りにはいかなかったことなどが重なってしまった。
大会後に600万ドルの移籍料でバルセロナに移ったがここでは苦難の連続だった。ビールス性肝炎で4ヶ月も休んだ上、悪質なファウルでケガを負い、3ヶ月もリーグを休んだ。バルセロナと記者たちとの間もうまくいかなかった。
1984年7月、ディエゴ・マラドーナはナポリに移った。同じ地中海でもナポリの空気の方がマラドーナに合ったのか長い間ユベントスやインター、つまりトリノやミラノなど北部勢に押さえられていたナポリ人が、マラドーナにサッカーという舞台で勝ってくれることを願う。そんな大衆の声をバックに、ディエゴは再び生き生きとプレーするようになる。
(サッカーダイジェスト1989年3月号より)

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