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vol.6 オランダ(下)


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 5月から始まった「フットボール・アラウンド・ザ・ワールド」は、今度が6回目。先月号からオランダをテーマにしています。17世紀に商業と海運で大いに栄えたこの国は、またスポーツが盛んで、ことにサッカーは登録人口が120万人と、全人口の10%に近い数です。これを日本にあてはめると、サッカー登録人口が1,000万人以上というものすごい数になるのです。
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オリンピック初期の銅メダル

 イングランドでフットボール・アソシエーション(FA)が設立されたのが1863年、協会(FA)ルールによるフットボール、つまり、いまのサッカーの原型がオランダに伝わったのは1865年。そして、オランダ・サッカー協会が創設されたのが1889年、英国以外では、2番目に早いのだという。そして、19世紀の終わりには、すでに全国選手権とカップ戦(オランダ・カップ)が、相次いで開催されている。

 初期のオランダ・サッカー史で注目される記録は、1908年のロンドン・オリンピックから、1912年のストックホルム、1920年のアントワープと3回のオリンピックに連続して3位となり銅メダルを獲得したことだろう。
 ロンドン・オリンピックは参加6チームで“本家”英国が優勝したが、オランダは、この英国に0−4で敗れ、スウェーデンに2−1で勝って3位となった。
 4年後のストックホルム大会は、11ヶ国が参加し、オランダはまずスウェーデンを4−3で降し、次いでオーストリアに3−1で勝ち、準決勝でデンマークに1−4で負けた。3位決定の相手はフィンランドで9−0の大勝だった。優勝は前回に続いて英国。

 第1次世界大戦(1914〜1918年)で中止されたオリンピックは、1920年、アントワープで第7回大会を開催し、地元ベルギーが初優勝した。オランダは1回戦でルクセンブルク(3−0)2回戦でスウェーデン(5−4)を破って、準決勝でベルギーと顔を合わせ0−3で敗退した。
 この頃になると、サッカーがヨーロッパ各地に普及してレベルが上がり、試合は接戦が多く、また英国が1回戦でノルウェーに負ける(1−3)といった異変もあった。


ヨーロッパの雄として

 次のパリ大会(1924年)は、南米のウルグアイが登場して、その卓越したテクニックでヨーロッパ人を驚かしたが、この大会でオランダは、1回戦の対ルーマニア(6−0)2回戦の対アイルランド(1−0)に勝って準決勝に進み、ウルグアイに1−2で敗れた。3位決定戦ではスウェーデンに1−1で引き分け、再試合は1−3で敗れた。参加国は22と大きくふくれあがり、そのなかで、オランダはスウェーデンやスイス、イタリアなどと優勝候補といわれるようになっていた。
 1928年の第9回オリンピック、アムステルダム大会はサッカーではウルグアイの連続優勝。しかも、決勝相手はアルゼンチンで、まず1−1で引き分けたあと、再試合(2−1)で勝負を決めた大接戦が記憶に残る。


アムステルダム五輪と日本

 オランダは残念にも1回戦でウルグアイとあたり0−2で敗退しているが、この大会は、日本のオリンピック史でも忘れることのできない大会。陸上競技の三段跳びで織田幹雄が15m21を跳んで優勝、水泳の男子200m平泳ぎで鶴田義行が2分48秒8で優勝し、初めて金メダルを獲得したのだった。  陸上競技では、他に三段跳びの南部忠平の4位、マラソンの山田兼松の4位、津田晴一郎5位、走り高跳びに木村一夫が6位、棒高跳びの中沢米太郎が6位に入賞、女子800mでの人見絹枝の銀メダルという快挙もあった。
 水泳では高石勝男の100mの3位・銅メダル、100m背の入江稔夫の4位、800mリレーの銀メダルがあって、次のロサンジゼルス(1932年)ベルリン(1936年)の日本選手の活躍につながってゆく。
 このときの日本選手のうち、何人かに直接会って話を聞かせてもらうチャンスもあったが、そんな話に出てくるのが、オランダ人のおおらかさと親切なこと―――だった。


ワールドカップでは……(アマチュアチームで参加した初期のワールドカップ)

 初期のオリンピックでの活躍に比べると、ワールドカップでの成績は目立たなかった。
 1928年のアムステルダム・オリンピックのときは、すでに、ブロークン・タイム・ペイメント。つまりサッカーの試合のために仕事を休んだときに、サッカー協会やクラブから受け取る“休業補償”の問題が、アマチュアのプレーヤーにも起こっていた。その問題をめぐっての対立のため、1932年のロサンゼルス・オリンピックはサッカーが行なわれなかったのだが、そうしたアマチュア規則にとらわれない“世界一を決める大会”として登場したのが、ワールドカップ(初期は、ジュール・リメ杯世界選手権といった)。

 オランダは第1回(ウルグアイ)には不参加、第2回のイタリア大会、第3回のフランス大会に参加し、34年はスイスに(2−3)、38年はチェコに(0−3)それぞれ1回戦で敗れている。すでにセミプロあるいはプロ化に入っていた各国のなかで、セミプロにもなっていないオランダが勝ち上がってゆくのは、難しくなっていたのかも知れない。


38年フランスW杯 植民地のチームを檜舞台へ

 そのこととは別に、1938年のワールドカップで、わたしたちは、蘭領東インドが参加し、1回戦でハンガリーに0−6で敗れた記録を見ることができる。
 蘭領東インドというのは、オランダ領東インド、つまり、今のインドネシアを指す。第2次大戦まで(17世紀から)植民地としてこの地域を経営していたオランダだが、1930年に蘭領東インド・サッカー協会を設立し、植民地であっても、スポーツの面では、ひとつの地域の協会として独立させ、ワールドカップへの参加も認めたのだった。

 スポーツを政治から切り離し、ひとつの地域の代表チームを国際大会に送るという考え方だろう。スポーツの“宗家”とみられる英国でも、クーベルタン男爵の理想を生み出したフランスでも、こうした柔軟な考え方は、第2次大戦の前にはなかったのではないか。この点で、わたしはオランダのスポーツマン、あるいは、オランダの植民地経営にたずさわる人たちの“スポーツの独自性の尊重”に敬意を表したい。

 同じ例では1952年、第2次大戦が終わったあとのヘルシンキ・オリンピックのサッカーに、オランダ領アンチルが参加したこともある。
 1921年にオランダ領アンチール・サッカー協会を設立し、FIFAには1932年に加盟した。この地域は、現在でもカリブ海サッカーのひとつの中心となっている(それが、今日のフリットなどのカリビアンの優秀プレーヤーの輩出につながっているのかも……)。


アヤックス、フェイエノールト、アイントホーフェン

 さて第2次大戦の荒廃から立ち上がり、自由と繁栄を取り戻すとき、サッカーは国の隅々にまで広がっていった。
 いや大戦中でさえ、オランダ・カップの中断は3年間、選手権リーグは1年だけだった。大戦中にドイツ占領地に不時着した英空軍のパイロットの脱出をテーマにした映画で、町のサッカー試合を利用する場面を観た事もある。試合に熱狂する市民たち、それを警備するナチの軍隊も(同じようにサッカー好きだから)ひきこまれて、警戒がゆるくなる。そのスキをついて、レジスタンスの助けを借りて脱出するシーンはスリル満点だが、そういう設定のできるところが、オランダといえるのだろう。
 それはともかく、戦後の急速な普及と発展は、やがて質というカベにぶつかる。 その打開策として、まずセミ・プロフェッショナルの制度を、次いでフルタイム・プロフェッショナルの制度を導入した。

 イングランドでは、すでに19世紀から始まっているプロフェッショナルが半世紀以上も遅れてきたわけだが、その効果は、アヤックス、フェイエノールト、アイントホーフェンのビッグ3の充実となって表れてきた。
 アムステルダム(人口86万人)に本拠をおくアヤックス。ロッテルダム(71万人)をバックにするフェイエノールト。人口は20万の中都市アイントホーフェン市だが、巨大企業、フィリップスがサポートするPSVアイントホーフェンは、国内での突出だけでなく、ヨーロッパの3大トーナメントで60年代から大きな伸びをみせた。
 1969年、アヤックスは初めてヨーロッパ・チャンピオンズカップの決勝に進んでACミランの守備作戦に敗れたが、次の年、フェイエノールトが決勝でスコットランドのセルチックを2−1で破って初のチャンピオンとなり、次いで1971年から、アヤックスが3年連続してタイトルを握った。
 71年の決勝の相手はギリシャのパナシナイコスだったが、72年はインター・ミラノ、73年はユベントスと、いずれもイタリアのチーム、カテナチオ戦術の“プロ”だった。


トータル・フットボール

 1960年代に、エレニオ・エレラがあみ出した守備重点の戦術はカテナチオ(かんぬき)と呼ばれ、門にかんぬきをかけて、相手の侵入を許さず、チャンスにはカウンター攻撃でゴールを挙げ、最少得点で勝つことを目的とした。
 カテナチオ作戦は流行し、ヨーロッパでは、守りを第一とするのが当然のようになった。
「こうした守備重視策は、サッカー場からファンの足を遠のかせてしまう」とアヤックスを中心に、カテナチオにまさる戦術を考えたのがリヌス・ミケルス監督だった。
 彼の指導のもとに、アヤックスは欧州のチャンピオンとなった。ヨハン・クライフという天才を得てアヤックスは輝き、1974年のワールドカップでミケルスと彼のチームが演じたトータル・フットボールは、全く新しいサッカーとして全世界に大きなショックを与えた。
 その74年の代表の主力となったクライフや、ニースケンスやクロル、シュールビール、ヤンセン、ハネヘム、ハーンたちの盛期が過ぎると、1980年代前半のオランダは、しばらくクラブも、代表チームも檜舞台でライトを浴びることはなくなった。


リヌス・ミケルス監督

 アヤックスを去ったあと、バルセロナからアメリカのロサンゼルス・アズテックス、さらには西ドイツの1FCケルンなどの監督を務めたミケルスが、オランダに帰ってきたのは1984年だった。協会のリーグ担当となり、この年の秋に代表チームをみるようになった。
 心臓の手術のため1985年1月に入院し、しばらく現場を離れたあと、ヨーロッパ選手権の予選の始まる前から復帰した。休んでいる間、彼は技術スタッフと話し合い、若いプレーヤーに経験をつませること、楽しくゲームをさせること―――そのために、トレーニングのマニュアルをつくることを指示した。

「将軍」と尊敬をこめて呼ばれるミケルスの代表チーム監督就任は、選手の信頼を深め、ピンチにも「スフィンクス」のように表情をかえない彼のアドバイスはプレーヤーによく浸透した。
「現在のサッカーは大衆にはエキサイティングじゃない。だから、スタジアムから遠ざかる」
「これを変え、ファンをスタジアムに引き戻すことはむずかしい」
「しかし、本当のオランダ・スタイルのサッカーをすれば、それは可能なことだ」
「ウイングプレーは魅力的で、長いパスは効果ある戦術だ。プレーヤーは相手を追って、グラウンドいっぱいに展開し、ボールを奪い、持つためにだけでなく、スペースを創り出すためにも戦わなければならない」

 こうしたサッカー理念を持ち、それをプレーヤーが身につける方法を知っているミケルスによって、88年の新しいオランダはヨーロッパのタイトルを取った。
 フリット、ファン・バステン、R・クーマン、ライカートなどの主力は25歳か、それ以下だから、2年後のワールドカップには、年齢的には最盛期での出場となるだろうし、また、フリットにしてもストライカーのファン・バステンも、オランダ人特有の立派な身体に加えて、テクニック重視のミケルスの影響を受けて、さらに伸びるだろう。
 オランダ人たちは、74年に続いて90年のイタリアで、何を世界に見せてくれるのだろうか―――。


(サッカーダイジェスト 1988年10月号)

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