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vol.5 オランダ(上)


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「フットボール・アラウンド・ザ・ワールド」――世界で一番盛んで、地球の隅々に広まっているサッカーが、それぞれの土地で、人々の間で、どのように発展し、どのように楽しまれているか――を見聞するこの連載は今度が5回目。これまで眺めてきたイタリアから、目をオランダに移すことにしました。古くから日本と交流のあったこの国は、今年欧州選手権(EURO88)のチャンピオンになったサッカー国でもあるのです
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第2黄金期の到来

 1988年はオランダ・サッカーにとって2つのヨーロッパ・タイトルを握る記念の年となった。
 5月11日にストラスブールで行なわれた87−88年シーズンのヨーロッパ・カップ・ウィナーズ・カップの決勝は、前年優勝のアヤックスが隣国ベルギーのメケレンと対戦し、0−1で敗れて、連続優勝はできなかった。反則で1人が退場し、10人で試合を続けることになったのが響いたのだが、この2週間後、5月25日に行なわれたもうひとつのヨーロッパのクラブのタイトルマッチ、欧州チャンピオンズ・カップの決勝で、オランダのPSVアイントホーフェンがポルトガルのベンフィカと0−0の同点のあとPK戦を6−5で取り、ヨーロッパのクラブの最高峰についた。
 PSVアイントホーフェンには初、オランダチームにも1973年のアヤックス以来15年ぶり、5度目のチャンピオンズ・カップだった。

 次いで6月10日から25日まで西ドイツで開催された88ヨーロッパ選手権大会で、オランダ代表は1次リーグでソ連(0−1)、イングランド(3−1)、アイルランド(1−0)と強敵を相手に2勝1敗、このグループの2位となって準決勝に進出、ここで開催国・西ドイツを2−1で倒して決勝に進み、準決勝でイタリアを破ったソ連と再戦、2−0で勝った。
 1970年代のあのクライフ時代の光彩が去って、しばらく国際舞台で花やぐことのなかったオランダだったが、昨年のアヤックスのカップ・ウィナーズ・カップの成功で、オランダ時代を予告し、ことし、ナショナル・チームの欧州初制覇とアイントホーフェンのチャンピオンズ・カップ優勝という2冠によって、第2期黄金時代の到来を世界に告げた。


74年西ドイツW杯のクライフと仲間たち

 オランダのサッカーといえば、誰もが1970年代のあのヨハン・クライフと彼の仲間たちが生み出した栄光の時代と、エキサイティングな「トータル・サッカー」を思い出す。
 1974年のワールドカップ西ドイツ大会で彼らが演じたチームプレーは、それまで、我々が見慣れてきたサッカーとは、まるで違うように感じたものだ。
 相手ボールのときは、どんどん積極的に奪いにゆく。味方ボールとなると、クロルや、シュールビールのようなフルバックまでも、前線へとび出してゆく。一人ひとりのレベルの高いボールテクニックと鍛えられた体が、この戦術のもとにイキイキとフィールドを走りまわるのは、まことに壮観だった。

 そして、イレブンの中核となったクライフ。当時27歳の彼は、すでにアヤックスの欧州チャンピオンズカップの3連勝(1971〜73)の実績に加え、移籍したスペインのバルセロナではスペイン・リーグ優勝をもたらした。
 いわば最盛期にあったクライフは、細く、華奢に見えるが、鋼(はがね)のような強さと、弾力を持つ体と、卓越したボールテクニック、30メートルの長距離パスを、突進する味方の前にピタリと合わせるキック力や、ゆっくりした動作から、突然、速くなる緩急の落差の大きなドリブルは、誰もマネのできないものだったし、相手の情況、仲間の配置を読み、つねに3手以上のパスの経路を持っていた戦術眼は、味方イレブンの信頼を集めた。チームの攻撃は、激しい動作や、長い疾走などの重労働を要求しながら、その展開はまことに美しく、ときには芸術的でさえあった。


新しいアイデア

 ミュンヘンで行なわれた決勝で彼らはベッケンバウアーの西ドイツに敗れてワールドカップ初優勝のユメは果たせなかったが、彼らが描いたサッカーのアイデアは、世界中に大きな刺激を与えた。

 4年後の1978年大会には、クライフは自らの意思で参加しなかったが、オランダ代表は、決勝まで勝ち上がり、開催国アルゼンチンとの延長の激闘の末、1−3で準優勝にとどまった。クライフを欠いたこのチームには74年のあの“輝かしさ”―――左右のオープン攻撃で脅やかし、相手の守りを分散させては1発のスルーパスでズバリと中央を突破する、といったスリル。それもヨーロッパ的な展開の大きさと、速さをともない、見る者にサッカーでなければ味わえない壮快さを感じさせてくれる―――は消えていたけれど、気候、風土の全く異なる南米ブエノスアイレスで、ホームチームを支持する熱狂的な観客で埋まったリバープレート(競技場)で互角に戦ったタフな神経と高いテクニックと体力には頭の下がる思いがしたものだった。


八重洲、長崎・出島

「神は世界をつくったが、オランダは、オランダ人がつくった」という言葉がある。ネーデルランド(低い土地)の名の通り、ライン河、マース河、スヘルデ河の3つの河が北海に流れ込むデルタ地帯、今のベルギー、オランダ地域に、古代ローマ帝国の勢力が伸びてきたのは紀元前50年ごろだったか。そのころ、すでにゲルマン系の人たちが住んでいた。
 海面より低い土地に住むため、ここの人たちは、昔から水と戦い、国土を造ってきた。土地を干拓し、それを維持するために堤防をつくり、さらにそれを、少しずつ海のほうへ広げてゆく。
 そんな風土との戦いの中で、オランダの人たちは、自然に勤勉を身につけ、そしてまた、海や土地の改造という“大事業”を永久的にくり返すために、いつも時代の先きを読む、計画性が身についたのかも知れない。

 1600年4月19日、17世紀の初頭に、オランダ戦リーフデ号が九州の豊後海岸についたときに始まった日本とオランダとの関係もイキ長く続いた。
 このとき来日した主席航海士ウイリアム・アダムスは三浦按針となって日本にとどまり、徳川家康の外交顧問を務めた。乗組員ヤン・ヨーステンも耶揚子と名乗って幕府に仕えた。東京駅に近い八重洲(やえす)という地名は、耶揚子の名に由来するという。


シーボルトとわが祖先

 長崎の平戸にオランダ商館が設立され、正式に外交関係ができたのが1609年。寛永12年(1635年)徳川家光が外国船の入港・貿易を長崎に限り、日本人の海外渡航・帰国を禁止する“鎖国政策”をとるようになってからも、オランダ人は、長崎の特定地区“出島(でじま)”に滞在することを許され、日本との貿易をつづけた。
 このあと約200年、オランダは、世界に対する日本の唯一の窓の役割を果たしてくれた。

 オランダと日本の交流は、オランダには、日本の焼物の技術をオランダのデルフト焼などに写すプラスがあり、また、日本では蘭学(らんがく)つまりオランダ語を習い、オランダ語で本を読み、海外の新知識を身につけることが学問の進歩につながった。杉田玄白の『解体新書』が刊行されたのが1774年(安永3年)だった。
 この頃になると、わが家もオランダと多少の関係がでてくる。わたしよりも六代前の先祖、賀川玄悦(1700〜1777年)は、日本の産婦人科学の始祖といわれる医師だったが、彼は「胎児が、頭を下にして胎内にいる」という「産論(さんろん)」を発表したのが1765年(明和2年)これをオランダ東インド会社に勤めたドイツ人医師シーボルトが世界の医学界に知らせ、認められたのだった。


4ヶ国語をしゃべる

 わたしの知り合いのオランダ人に、マラソンのコーチがいる。一人はアヤックスのフィジカル・トレーナーでもあったのだが、陸上競技協会からマラソンのコーチにと要請され、女子マラソンの選手育成にあたっている。
 もう一人も、オランダ人で、スウェーデン陸連の公式のコーチでもあった。
 彼らに共通するのは、英語が上手なこと、英語だけでなく、一人は5ヶ国語を話す。
 オランダ陸協の秘書をしている女性は、英、仏、独、スペインの4ヶ国語ができるので、各国協会のテレックスに対して、それぞれの言葉で返事を打てるのだという。

 海を目の前にし、海の脅威にさらされながら、同時に、海を渡って海外へ出て行くためにも、オランダ人の外国語習得は生活のために備わった才能なのかも知れない。
 そういえばヨハン・クライフは、英語とドイツ語とスペイン語とカタロニア語―――つまり、オランダ語の他に4つの言葉を語ることができた。彼が、今度スペインのバルセロナの監督に就任したのも、このクラブのプレーヤーの経験があり、市民に親しまれていることもあるだろうが、やはり言葉が出来ることが大きい。


パワフルで技術に熱心

 オランダのスポーツを思うとき、わたしたちには、東京オリンピックの柔道・無差別級に優勝したアントン・ヘーシンクや、72年のミュンヘン大会の勝者、ウィルヘルム・ルスカの名がまず浮かぶ。
 少年時代サッカーが好きだったというヘーシンクは1m98の巨漢で、腕の力が強いうえに足の運びが上手だった。

 東京から8年のちに、日本で初めて開かれた冬季オリンピック札幌大会では、男子スピードスケートの1,000メートル、1,500 メートル、5,000メートルの3種目のメダルを獲得したアーノルド・シェンクがいた。彼の力強いスケーティングは機関車のように氷上を爆走した。
 女性では1948年のロンドン・オリンピックの陸上競技400メートル、200メートル、80メートル障害と400メートルリレーの4種目に金メダルを取ったブランカース・クン夫人は、第2次大戦後、復活したオリンピックの花だった。1962年インスブルックでの冬季オリンピックの女子フィギュア・スケートの金メダリスト、ショーケ・ディクストラも記憶に残るチャンピオンだった。
 こうしたオランダの優れたスポーツマンを眺めると、まず体格がよく、パワーのあることが基調になっているようにみえた。優美なフィギュア・スケートのディクストラも、ストロングなチャンピオンといわれたのだった。
 そうしたパワーは、オランダのサッカーにもつながっている。74年ワールドカップ、ゲルゼンキルヘンでの対東ドイツ戦の直前に、彼らのトレーニングを、すぐそばで見たとき、あらためて、一人ひとりの体格、骨ぐみと筋肉のすばらしいのに目を見張った。
 そんなパワフルな体を持っていても、彼らはテクニックを身につけていた。

 去る4月22日、東京ドームで「キック・エイズ88」という、人間の未来にかかわるエイズに対するキャンペーンをテーマとしたサッカーのチャリティ試合があった。
 日本は釜本や杉山らメキシコ五輪の何人かを中心に現役のコーチらが加わって日本シニア・オールスターズを編成し、相手となったペレ・オールスターは、ペレの呼びかけに応じた、かつての名選手の集まりだった。
 キーガン(イングランド)クビヤス(ペルー)ベネッティ(イタリア)ロッシ(イタリア)などとともに、オランダのニースケンス、クロル、レップの74年ワールドカップの選手が出場していた。  彼らの現役の、しかも最盛期のプレーをまだ覚えているわたしだが、第一線を退き、36〜39歳となったいまでも、技術の高いのに驚かされた。
 いや、むしろ、パワーを前面に押し出さなかっただけに、そのテクニックが目立った。現役のときは、ロケットのようなシュートをけったレップが、GKの頭をふわりと超すシュートを成功させたし、ニースケンスが後方から左オープンスペースへ出てゆくのに、クロルがぴたりとパスをあわせるなど、プレーの基礎となるキックが、それぞれの場で、きちっと使い分けできるように磨かれ、体についているのに感心したものだ。

 今度の第2期黄金時代を担うプレーヤーはクライフたちの盛期に、8歳から12歳くらいの子どもたちだったハズだ。彼らがどんなふうに育ち、どのような技術教育をうけたのかを機会があればさぐってみたい。それはまた、わたしたちの英語教育と関連があるかどうかも―――。


◆オランダメモ1:オランダとネーデルラント

 日本ではオランダという国名で通っているが、正式の国名は、KONINKRIJK der NEDERLANDEN(オランダ王国)普通にNEDERLAND(ネーデルラント)という。これは「低い」(NEDER)「土地」(LAND)という意味でライン河、マース河、スヘルデ河のデルタ地方に広がった低地帯が国土の半分近くを占めていることによる。
 英語の辞書でもオランダ(HOLLAND)をひくと「オランダのこと、公式にはTHE NETHERLANDSという」とある。
 このNETHERも古い英語で「下の」という意味らしく、ドイツ語のNEIEDERLANDEも同じく「低い」(NEIDER)。また、フランス語の、PAYS BAS(ペイ バ)も、低い(BAS)国(PAY)の意味。
 HOLLANDという名は、この国の興隆の中心となったホーラント(HOLLAND)州に由来し、日本のオランダも、ここからきている。
 もちろん、HOLLANDを使うことも多く、UEFA(ヨーロッパサッカー連盟)の報告書のドイツ語編ではHOLLAND(ホラント)で使われていたのを見たこともある。


◆オランダメモ2:オランダ・日本 Q&A

Q:国土はどちらが大きい?

 オランダの国土は4万1,000平方キロ、日本の約10%、九州くらいの大きさ

Q:人口は?

 オランダは人口1,450万人。日本は1億2,000万人

Q:一番高い山は?

 ネーデルラントの名のとおり、低く平坦な国土で、一番高い地点は海抜321メートル。日本は国土の8割が山地、一番高い山は富士山3,776メートル

Q:オリンピック・サッカーでメダルは?

 オランダは1908年、1912年、1920年と3回連続して銅メダル。日本は、1968年に銅メダル

Q:ワールドカップ・サッカーでは?

 オランダは、1974年、1978年に2回連続して準優勝。日本は本大会に一度も出場していない


(サッカーダイジェスト 1988年9月号)

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