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視野の広さと国際感覚

 テレビの大河ドラマでおなじみの8代将軍徳川吉宗のころ、鎖国政策の日本にあって海外との交流の窓口となったのが、長崎・出島のオランダ商館。オランダ語の書物も流入し、吉宗に仕えた青木昆陽らによって翻訳が始まり、やがて蘭学隆盛へと進み、明治開国までの先進知識の導入につながった。
 スポーツ界にも、オランダは懐かしいところ。1928年のアムステルダムオリンピックは、日本が陸上競技の三段跳びで織田幹雄、水泳の200m平泳ぎで鶴田義行が、それぞれ優勝し、初めてメインポールに日の丸が掲げられた大会。のちのロサンゼルス(1932年)ベルリン(1936年)と第2次世界大戦前の日の丸ラッシュのスタートとなった。
 私自身はまだ小学校にも間があって、もちろん記憶はないが、記者となってから先人の誇り高い回想を何度となく聞いたものだ。

 北海を隔ててブリテン島と向き合うオランダにサッカーが伝わったのは1865年、ロンドンでFA(フットボール・アソシエーション)が設立され、ルールの統一が図られて多、2年後。1889年にオランダサッカー協会が誕生し、全国選手権と、カップ戦は19世紀の末に始まっていた。

 海外への視野が広く、国際感覚の鋭いこの国の人たちは、1904年のFIFA(国際サッカー連盟)の創立にも関わり、オリンピックにも1908年のロンドン大会、つまり、サッカーが正式種目となった第4回大会から参加して、3位。以来、第2次大戦前まで、アマチュアの国際舞台では注目される強国だった。

 大戦が終わって10年後、1956年のプロフェッショナル制の導入はトッププレーヤーの国外流出を防ぎ、若手育成の基盤作りとなって、リーグのレベルを高めた。特にロッテルダムのフェイエノールト、アムステルダムのアヤックス、アイントホーフェンのPSVという3つのクラブは、西欧の大クラブに方を並べる強チームを持つようになった。


(1995年12月 第10回トヨタカップ・プログラム)

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