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70年代のアヤックスと代表チーム

 1970年にフェイエノールトが、オランダに初の欧州チャンピオンズ・カップを持ち帰ると、翌年から連続して3年間、リヌス・ミケルス監督のアヤックスが欧州の王座に就く。
 彼らが演じたのは、レアル・マドリーの目もくらむスター群の個人プレーの集積でもなく、インテルをはじめとするイタリアの守備重点“カテナチオ”でもなかった。
 FWがディフェンスし、フルバックが攻撃に出る。中盤で相手ボールを囲んで奪い、一気に攻撃を展開する。第2列も、第3列も(一見)自由に飛び出してくる。彼らの動きの速さ、疾走の長さ(それもボールのない時の)は、それまでの常識を覆すものだった。
“トータル・フットボール”と呼ばれ、綿密に個性に合わせて役割を与え、しかもその判断は個々に任せたアヤックスのゲーム展開は、ヨハン・クライフの才能の開花とともに、他のチームには手のつけられないほどの威力となった。

 1974年西ドイツでのワールドカップ。このひのき舞台で、ミケロスとクライフはオランダ代表を率いて、世界に彼らの作品を披露した。南米の技巧も、イタリアのカテナチオも色あせて見えた。欧州遠征中だった日本代表チームの長沼健監督(日本サッカー協会会長)はスタンドで、「21世紀のサッカーだ!」と感嘆した。

 決勝で西ドイツと対戦。すでにクラブレベルでトータルサッカーの洗礼を受けていたベッケンバウアーと、彼の仲間の意地が薄氷の勝利をものにし、オランダはカップを逃したが、彼らの創造したサッカーは、世界中の強いインパクトを与え、それ以後、守備ラインの前進、コンパクトな中盤、前線からの守りと、第2、第3列の飛び出しなどは、トップチームの主流となった。


(1995年12月 第10回トヨタカップ・プログラム)

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